仏教だけではなく、あらゆるインド教に普遍的な『苦なる輪廻からの解脱』というパラダイム。このパラダイムにおいて、そもそものスタート地点である、生存は苦であると言う『ドゥッカ(苦)』の自覚。このインド思想において最も重要なドゥッカという概念、その語感の根幹には車輪という事物が深く関わっていた。
同時にこの苦なる輪廻という概念もまた、車輪という事物と深く関わっている事は、輪廻という語感によく現れているだろう。輪廻の原語であるサンサーラとは、語義的には途切れる事のない流れを意味する様だが、すでにそこには循環というニュアンスが否応もなく含まれている。
それが一方から他方への直線的な流れならば、いつかは終わるだろう。しかしそれが終わりと始まりが連接しているループであるならば、それは無限循環を繰り返す。あたかも終わりなき車輪の回転の様に。
輪廻思想のごく初期段階において、輪廻のループと車輪の回転はサンサーラ・チャクラとして重ね合されていたのだろう。そこには無限に回転し続ける苦なる輪廻の車輪という共通認識があった。
そこから生まれたのが、チベット仏教に伝わる‘BHAVA CHAKRA’すなわち、生存の車輪=六道輪廻図だ。
チベット仏教に伝わる六道輪廻図
そこには悪魔に抱えられた巨大な車輪がスポークによって6分割され、上の半分に天界、人間界、阿修羅界が、下の半分に畜生界、餓鬼界、地獄界が描かれている。ここに露わになる思想とは、正に現象界という輪廻の車輪が回転する事によって、苦がもたらされると言う冷徹な認識だ。
しかし、インド思想の原風景であるリグ・ヴェーダにおいて、そもそも回転する車輪とは、侵略するアーリア人に対して富をもたらすスカ(喜び、幸福)の車輪であったはずだ。それが何故、ドゥッカ(苦)である輪廻の車輪という、対照的なネガティヴィティの象徴にまで落ちてしまったのだろうか。
そしてもうひとつ、この六道輪廻図を生み出した仏教思想のそもそもの原風景において、彼らは聖なる法の車輪=ダルマ・チャクラというシンボリズムを生み出している。何故同じ仏教という文脈の中で、同じ車輪という事物が聖と俗、楽(解脱)と苦(迷い)という対立する両極を同時に表しうるのだろうか。
キリスト教において、神=キリストの救済や天国を象徴する十字架が、同時に悪魔の俗悪性や地獄を象徴するなどという事がありうるだろうか。イスラム教において、神の救済や天国を象徴するコーランが、同時に悪魔や地獄を象徴するなどという事がありうるだろうか。
仏教における車輪が、聖と俗を、楽と苦を、同時に象徴しうるというこの事実は、一体何に由来するのだろうか。
私は、このネガティヴィティを象徴する苦の車輪というイメージの創造において、アーリア人に征服されたインド先住民の思想が大きく関わっていたと考えている。
物事というのは常に相対的に考えなければならない。一枚のコインには表があると同時に裏もある。インド・アーリア人がカイバル峠を越えて亜大陸に侵入し、ダーサの民を殺戮し、征服しその富を略奪し、勝利する自らの姿をインドラ神に仮託して称賛していた正にその時、侵略され殺戮され征服され略奪されたダーサの原住民は何を思っていた事だろう。
インド・アーリア人にとって武威と神威を象徴するスカ(幸福)の車輪だったその同じ車輪は、ダーサの先住民にとっては正に恐怖と絶望と悲しみと苦悩を象徴するドゥッカの車輪ではなかっただろうか。
以前私は、アーリア人の侵入以降のインドの歴史を、西欧人による大航海時代以降の世界史と重ね合わせて見るという視点を提示した。
コロンブスによって発見された新大陸アメリカは、その後スペイン王国に巨万の富をもたらした。インカやマヤの財宝はことごとくヨーロッパ大陸に持ち去られ、新規開拓された金銀山からは、更なる富が収奪され、ヨーロッパ世界を富み肥やしていった。正にスペイン無敵艦隊、黄金時代の到来だった。
しかし、そこにおいてスペイン人にインディオと名付けられた先住民達は、同じ時同じ場を共有しながら、対極的な別世界を経験していた。それは侵略され殺戮され略奪され奴隷化され、差別され収奪され続ける暗黒時代の始まりだったのだ。
同じ事が、紀元前1500年以降のインド史においても当てはまるだろう。ダーサに象徴される先住民にとって、アーリア人の定住と拡散は、正に恐怖の暗黒時代の始まりだったのだ。アーリア人が誇らしげに駆り立てるラタ戦車の車輪は、先住民にとってはドゥッカの車輪以外何ものでもなかっただろう。
やがて勝者アーリア人は、自らの欲望を最大限に実現するためにヴァルナの氏姓制度を確立し、先住民たちは最下層のシュードラとして隷従を強いられるようになった。
シュードラの眼には、支配者であるバラモンが祀る神々はどのように映っただろうか。支配者である王族が享受する豪奢な生活はどのように映っただろうか。
一般にアーリア人のインド侵入と一言で片づけられているが、その背後にはおびただしい血と汗と涙と、凄まじいまでの社会変動が伴っていた。勝者と敗者という対置を基軸とした経験の両極性というものが、その後のインド世界に長く尾を引いた事だろう。
そこで常に脚光を浴び続けたのは、勝者の視点だった。それはアメリカという国の歴史が常に勝者である西欧移民の視点から語られ、アメリカン・ドリームという言葉で象徴されるのと同じ原理なのだ。
しかしコロンブスによる新大陸アメリカの発見から500年が過ぎた今、世界情勢はどうなっているだろうか。インカやマヤを攻め滅ぼして無敵艦隊を誇ったスペインは、今やユーロのお荷物と言われるまでに没落した。
アメリカへと移民を輩出し、奴隷売買を基軸とした三角貿易によって七つの海の覇者に成り上がったイギリスもまた、ほとんど全ての植民地を失い、英国病とまで言われるほどに落ちぶれ、陽の沈まない帝国と称賛されたかつての栄光を思い起こさせるものは、大英博物館くらいだろう。
そしてアメリカもまた、かつてのWASPの帝国も今は昔、黒人奴隷は解放され、その後は公民権を得て、今や大統領は黒人とのハーフになった。ビジネス、科学、国家官僚など諸分野において、非ワスプが要職を占める割合は急増し、インターレーシャル・マリッジと呼ばれる異人種婚が急増しているとも言う。
奴隷の子孫であるアメリカ黒人の文化は、今やヒップホップなどの形で世界中の若者文化を席巻している。あの強靭な生命力に裏付けられたクールさは、格好がいい、という事の代名詞にすらなって、世界中で憧憬され模倣されているのだ。
今や時代はBlack is GREAT ! yo, yo, man !
一方、かつて白人によって駆逐されたアメリカ先住民の文化思想は、反戦意識や地球環境問題の顕在化によって新たに持続可能な共生の思想としてクローズアップされている。
かつて大英帝国によって徹底的に収奪されたインドはマハトマ・ガンディという思想界の巨星を生み出し、その生きざまは反アパルトヘイトのマンデラ師や公民権運動のキング牧師に多大なる影響を与え、世界の人権意識を大いに高めた。
国際関係に目を転ずれば、世界の警察・ユニラテラル主義のアメリカによって先導されたグローバリズムは翳りを見せ始め、今や次期超大国候補は、かつて西欧によって発見され収奪された国々、すなわちインドや中国やブラジルなどが主流を占めるようになった。
同じような社会変動が、多かれ少なかれ古代インドにおいても起こったのではないかと私は考えている。
ブッダの時代、アーリアの純潔を標榜するデリー周辺のバラモン文化圏は衰退の兆しを見せ、先住民や混血文化を中心にしたガンジス川中下流域の都市文化圏は著しい興隆を見せ始めていた。
そこにおいてバラモン主導のヴェーダ祭祀は批判の矢面にさらされ、残酷な動物供儀を伴った形骸化した祈祷から人心は離れ、新たにサマナと呼ばれる求道的真理の探究者たちが人々の熱い期待と支持を集めていた。
アーリア人が無邪気に神に祈り貪った現世利益は、その宗教における至上性を、現世を超えた魂の完全なる救済、すなわち解脱へと奪われていった。
その背後には、この世界で誰かがスカ(幸福、富、栄光)を貪れば、その裏では必ず誰かがドゥッカ(苦悩、貧困、絶望)を強いられる、という先住民の魂からの叫びがなかっただろうか。
アーリア人がインドに侵入したのが紀元前1500年ごろと考えて、ブッダの時代はその1000年後にあたる。変化のスピードを考慮してこの1000年を近現代世界史の500年と重ね合わせたなら、ブッダの時代とはまさしく私たちにとっての『現在』であり、私たちの現在とは正にブッダの時代に相当しないだろうか。
この様な視点を作業仮説として採用する事によって、ブッダの生きた時代の息吹というものが、ありありとリアルに再構成されるのではないかと私は思うのだ。それは同時に、私たちの現在が、今後どのような歴史展開を見せるだろうかという『先見』において、重要な示唆をも与えてくれるだろう。
(もちろん全てがまったく同じなどという事ではない。しかし人の心がどのように移ろいゆくのかという原理の普遍において、二つの時代と歴史を重ね合わせるメリットは少なからずあると私は思う)
(もちろん全てがまったく同じなどという事ではない。しかし人の心がどのように移ろいゆくのかという原理の普遍において、二つの時代と歴史を重ね合わせるメリットは少なからずあると私は思う)
それが、私がこの様なブログを書くに至った、ひとつの本質的な動機となっている。
この記事は、ヤフー・ブログ版 From The Planet INDIA と連動しています。
このブログ内容は広く知られる価値がある、と思った方は、下記をクリックください