2012年8月14日火曜日

神聖チャクラ帝国


私たちの脳内に存在する中心から放射状に6分割されたデザイン。それをインド人たるシッダールタが見たならば、必ずや車輪と重ね合わせて見ただろう、そう私は前回書いた。

何故、インド人ならば車輪と重ね合わせて見る、と言えるのだろうか。この、インド人にとっての輪軸のアナロジーがもつ重要性とその意味を、本当に実感を持って理解するためには、まずは車輪がインドにおいてどの様な存在だったかを、様々な角度から理解しなければならないだろう。

それはまず、歴史的な理解だ。このスポーク式車輪を開発したアーリア人の祖が、どのようなプロセスを経てインドまでたどり着いたか、そのリアルな生活実感に思いを馳せる事だ。

インド文明は、侵略者アーリア人の文化・思想と、侵略された先住民の文化・思想が融合して、今日に至る複雑・深淵な歴史を生み出してきた。ブッダの時代は正にその融合する化学反応のさなかにあった。

アーリア人にとって、自ら創造したスポーク式車輪とは、正に彼らの他民族に対する優越性を象徴するシンボルだった。彼らはこの優れた最新鋭の車輪を履いたラタ戦車を駆って、中央アジアの大平原から西ユーラシア全土に進出していった。

エジプトを席巻したラタ戦車は、ファラオの象徴となった

エジプト、ギリシャを初めとした地中海世界、そしてトルコ、ペルシャなど彼らの車輪の轍の下に屈服しなかった土地はなかった。そして彼らの分隊は遥かに東征し、やがてカイバル峠を越えてインド亜大陸にも侵入した。

その間、故郷であるコーカサス北部の大平原からカイバル峠までのおよそ7000㎞を数百年かけて定住と移動を繰り返し続けた彼らにとって、旅は生活そのものであり、旅の足となるラタ(戦車、馬車、牛車)は何よりも日常に密着した相棒だった。

ラタ戦車を駆ったアーリア人の軍団は、インド亜大陸においても先住民をあっという間に征服した。正に向かう所敵なしという自らの偉大なる武威を神の威光と重ね合わせて、彼らはリグ・ヴェーダの神々の讃歌を歌い上げた。

主神格のインドラをはじめ、太陽神ヴィシュヌ、ウシャス、スーリヤなど実に多くの神々が、この讃歌の中でラタ戦車に乗って天空を駆け巡る姿で描かれている。

「七頭の黄金の駒は、汝を車(ラタ)に乗せて運ぶ、スーリアよ、炎を髪となす汝を、遠く見はるかす神よ」リグ・ヴェーダ、スーリアの歌、辻直四郎訳

太陽神スーリヤは7頭立てのラタ戦車に乗る

そして、これら武威と神威を象徴する形こそが、スポーク式車輪のチャクラだったのだ。それと重なるようにしてインダス先住民の聖チャクラ文字が存在したのだが、この時点ではそれは顕在化していない。

コナーラクの太陽寺院は、その巨大な車輪によって知られている

次に重要なのは、このような歴史背景を持つ車輪という文明の利器が、古代インドの社会生活の中でどのような意味を持っていたか、と言う視点だ。

アーリア人の聖なる車輪は、同時に世俗的日常生活において、文明社会の繁栄を象徴する重要なシンボルになっていった。これは特に、彼らがインドに定着し、社会経済が発展し、クシャトリアを中心にした都市文明が花開いていたシッダールタの時代には顕著だっただろう。

ラタ戦車はやがて戦場の最前線からは後退し、紀元前4世紀頃には象部隊に、その後は騎兵などにとって代わられるが、それは常に、クシャトリアつまり戦士階級の武勇と王権の繁栄を象徴するシンボルであり続けた。

馬車に乗って行幸するアショカ大王.。サンチーのトラナより

一方、商工業者や農民にとって、輸送手段としての牛車は日常必需品であった。農村の道を、そして都市をつなぐ街道をこれらの車輪が行き来する姿は、正に社会経済の繁栄を象徴する風景だった(それは現代においても基本的に変わらない)。

躍動する車輪の姿は、古代インドの人々にとって、聖俗共にあらゆる階級において欠かせないものであり、正に生活の中心にあって常に回転しているものだったのだ。

最後に重要なのが、構造的な理解だ。紀元前2000年頃アーリア人によって創造されたというこの木製スポーク式車輪は、それまでの板を張り合わせて円盤状に作った鈍重な車輪とは根本的に違っていた。

古代のものとほとんど変わらない車輪が、今もインドでは生きている
車輪は表に立って華々しく回転するが、車軸は静かに目立たない


それは、高度な加工技術と数学的な知性を前提に、ハブ、スポーク、リム(タイヤ)というパーツをそれぞれバラバラに作り上げ、それらを精緻に組み合わせることによってはじめてその姿を現す。

そこにおいてもっとも大切なのは、車輪が持つ真円の完成度と、中心車軸の揺るぎなき中心性だ。車輪の真円性が歪んでいたり車軸の中心性がずれていたら、車輪の回転はボコボコに揺らぎ、その乗り心地は最悪になる。

リグ・ヴェーダには、この車輪の製造に関わるトゥヴァシュトリ(工巧神)に対する言及も多く見られる事から、彼らにとって車輪の完成度が重要な意味を持っていた事がうかがい知れる。

そしてこの真円性と中心性を正にその中心において支えるのが、一本の車軸に他ならない。それは車台の下に隠れ、そこに固定されてまったく動かず、車輪の華々しい動きと形に比べ、とてつもなく地味でシンプルな存在だ。

ラタ・ジャットラ祭の山車の車輪を作る、現代の工巧神たち
精緻に加工され華々しく展開する車輪と、地味な丸棒状の車軸

しかし、この車軸がなければ、車輪は決してその働きを全うしない。車台を引く馬がいて、車台があり、車輪があったとしても、車軸がなければそれらは全く何の意味も持たないのだ。

一本の丸棒に過ぎない車軸こそが、車輪の中心にあってそれを回転せしめる主体である。まずはこの事実を、私たちは深く深く、理解すべきだろう。

シッダールタら古代インド人は、車輪という機構における真円性や中心性の大切さ、そして車軸という一見目立たないパーツの重要性をよくわきまえていた。それは、車輪を実際に作る職人以外の一般人にとっても、文字通り一般常識だった。

何故なら、これらのバランスが崩れた車に乗れば、それは即座に乗り心地を損ない、積み荷に影響し、乗員に影響し、ひいては農商工者の経済活動に、そして戦士の戦いに直接ダメージを与えるからだ。

この点に関しては、古代エジプトにおいて、ナイル川を上下する帆船が人々にとっていかに重要な意味を持っていたかを想起すれば、理解できるだろう。

この帆船は、やがて太陽の船として、死後のファラオの魂を神々の国へと運ぶ大いなる神船として崇められるようになる。正に古代インドの人々にとって、ラタ戦車は太陽の船であり、車輪(チャクラ)はそのシンボルだったのだ。

古代エジプトが太陽の王国なら、古代インドはさしずめ神聖チャクラ帝国だったと言っても言い過ぎではない。

この様な背景をリアルにイメージした上で、インドの思想について、私たちは思いを馳せなければならない。それをスルーしてしまえば、インド的な車輪のアナロジーの真意を理解する事は決して出来ない。

そしてひいては、仏教そのものに対する理解も、表面的なものに終わってしまうだろう。

インド文明における、チャクラ(車輪)思想の重要性。それはおそらく、仏教に携わる学者や僧侶、そして様々なインド学領域の研究者たちの間でも、ほとんど認識されてはいない事実だ。

その状況を覆す。それが、脳と心とブッダの悟りについて理解を深める第一歩になる。そう私は考えている。

この記事は、ヤフー・ブログ版 From The Planet INDIA と連動しています。

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