2012年6月6日水曜日

宗教とは何か


先日NHKで放送された『未解決事件File・オウム真理教事件』の中で、何人かの警察関係者が異口同音に語っていた言葉がある。
「まさか、宗教団体が、この様な反社会的な破壊的テロ行為を組織的に計画しているとは、想像もできなかった・・・」
これは大方の一般市民にとってもごく自然な感懐なのかも知れない。しかし私の考えは違う。どうも宗教音痴の日本人は、『宗教』が持っている本来の姿というものを見失って久しい様だ。

歴史的に見て、宗教が世界平和や人類みな兄弟などとその『普遍』を標榜するようになったのは、ここ最近ほんの100年ほどの出来事に過ぎない。
宗教本来の姿とは、その信仰を共有する特定の集団、つまり氏族・部族・民族、階級、組織が持つ排他と利己という目的意識を強化し、その欲望を推進するために常に原動力として機能するものだった。

ニューギニアの未開のジャングルで、ワニをトーテムとするA族と、オウムをトーテムとするB族が隣り合って暮らしていたとしよう。縄張りや女性を巡って争いが起きれば、両部族はそれぞれの主宰神を掲げて戦場に臨む。ワニ神はA族にとっては至高の神であり、自らの正義と戦勝を推進する守護神だ。だが、対立するB族から見ればそれは明確に悪魔と言って良いだろう。B族のオウム神もまた然り。ここに宗教が持つ本質的な姿が露わになる。

トーテムの属性は、常に人間的な日常を超えた力、すなわちワニの場合は強力な顎や牙そして尾の破壊力、オウムの場合は色鮮やかな美しさとその飛翔能力、などの超『(人間的)能力』と深く結びついている。日常的な人間わざを超えた超常的な神の威力を背負う事によって、戦場における恐怖は勇気へと変わる。

この文脈に前回お話しした合気道を重ねると、さしずめ超常的な神業を持つ植芝盛平をトーテムと崇めるアイキ神族であると言えるかも知れない。

同様にオウム真理教事件を、圧倒的な多数を占めるマネー神族(日本株式会社)に対して、絶対的マイノリティーであるオウム神族が仕掛けた一発逆転ゲーム(戦争)だったと考えるとまた違った見方ができないだろうか。それは実に愚かな挑戦だったが、しかし宗教としての原理は一貫している。オウム神という異端のミームを勝利させるためには、あれが最善の道だと麻原彰晃は信じたのだろう。

宗教とは心にインストールされたセキュリティ・ソフトである

そもそも宗教とは一体何だろうか。私はそれを、脳とコンピュータの相似性から、この様に譬えたいと思う。それはすなわち、宗教とは脳において顕在化した『自我意識』というオペレーション・システム(OS)が、自らが持つ本質的な脆弱性を補うために創り上げた『セキュリティ・ソフト』である、と。セキュリティ・ソフトである以上、その目的は自己を守り、敵対する他者を排除する事を至上命令とするのは当然の帰結だ。

1台のパソコンに2種類のメジャーなセキュリティ・ソフトを同時にインストールすると、必ずと言って良いほど干渉問題を起こす。お互いがお互いの論理をウィルスと認識して排除しあうからだ。

もしマカフィーとカスペルスキーをインストールした2台のパソコンを『有機的』に接続して相互にコミュニケーションが可能になったとする。その瞬間マカフィーとカスペルスキーはお互いにお互いを敵と認識して戦争状態に突入しないだろうか。
私はコンピューターの専門家ではないので、もちろんこれは単なるたとえ話だ。だがこのたとえ話は宗教とは何か、という問いについて考える時に、重要な示唆を与えてくれるだろう。

オウム神族とマネー神族のあまりにも異質なセキュリティ・ソフトが、お互いにお互いをウィルスと認識して、オウム神が先制攻撃をかけた。それが、オウム真理教事件のひとつの解である、と私は思う。おそらく、麻原彰晃という人間は、たぐい稀なレベルでプリミティブな生命力に溢れたシャーマン的『族長』だったのだろう。宗教的な『文脈』など、実際彼にとってはどうでもいい事だったのだ。


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