2012年6月10日日曜日

ブッダの瞑想法とは魂のリカバリである


インストールするセキュリティ・ソフト型宗教と対置される形で、もう一つ全く別の宗教形態が存在する。それが『アンインストールするリカバリ型宗教』だ。これは原理的に、この地球上で唯一カルトではない宗教になる。全ての宗教はカルトである、という先の定義に従うのならば、これはもはや宗教ではない。このカテゴリーに所属し、その完成度を最大限に高めた教えこそが、ブッダの瞑想実践に他ならない。

仏教の核心にあるブッダの悟り。シッダールタがこの悟りの境地に到達し全ての苦悩から解き放たれた作用機序とは、本質的に信仰ではなく瞑想実践によってアクティベートされる。それは具体的には、アナパナ・サティと呼ばれる『呼吸への気づき』という心的活動に始まり、そこに終わる。

だが、この2つの宗教形態、すなわちインストール型とアンインストール型はまったく別々に無関係なものでは決して無い。その作用機序には明確な違いがみられるが、インストール型宗教にもアンインストール型の働きが『行』という形で多かれ少なかれ内包されており、アンインストール型宗教にもインストール型の『信仰』がその作用過程で重要な役割を担っているからだ。

しかしやはり、この2つは本質的に真逆の方向を志向する。それはそれぞれのネーミングが直接的に表している通りなのだ。世界中のほとんど全ての宗教が、OSである自我意識にインストールされるセキュリティ・ソフトなら、アンインストール型の仏教とは一体何だろうか。

それは、アンインストールという言葉が直接示唆する様に、すべてのソフト・ウエア/アプリケーションが『止滅』した魂の初期状態、人間の場合は誕生直後の赤ん坊の出荷状態に還る完全リカバリを意味するだろう。

長年使ったパソコンがどうしようもなく重くなり、様々なトラブルを頻発するようになって、可能な限りソフトウエア的対策を講じてもにっちもさっちも改善の兆しが見られず、もはやその運用に困難をきたした時、私たちは何をするだろう。その時に私たちが取る最終手段、それこそがこの完全リカバリに他ならない。

母親が赤子を産み落とす行為を、英語ではデリバリーという。文字通り赤ちゃんはこの現象世界に『出荷』されるのだ。その誕生の瞬間、新生児はオギャーと泣き叫ぶと共に力強く呼吸を開始する。それは彼にとって全く新しい鮮烈な感覚をもたらすに違いない。

その時彼は、手足をばたつかせると同時に、羊水の海から空気中へと移行した衝撃を、産道を通過する際の強烈な感覚を経て、何よりもまず察知される水と空気の質感や温度の違い、すなわち皮膚感覚で感じ取ることだろう。

聴覚については胎児の時から一定の活性をもって様々な環境音を聞き取っているらしい事が分かっている。しかしそれは未だ明確な意味の体系としては焦点を結んでおらず、母親の声以外は単なるBGMに過ぎないだろう。

つまり、出荷状態の人間意識の原風景とは、呼吸意識、体性運動意識、そして体性感覚意識の三位一体であり、基本的にこの3つのファンクションは、パソコンに譬えた場合、ハードウエアに付属し最初からビルトインされているファームウエアに相当する。

コンピューターにおいて全てのソフトウエアは基本的に0と1という2進法のマトリックスによって記述される。新生児におけるこの出荷直後の純粋意識は、いまだOSである自我意識のマトリックスさえ記述されていない最小限のファーム意識であり、大脳的には『エンプティネス』を体現している(この時点では大脳的なニューロン・ネットワークはその配線すらされていない!)。そこにはもちろん、OSのアプリに過ぎない言語的シンキング・マインドなど未だ書き込まれていない。

彼の魂は、脊髄・延髄という非情動性の中枢に留まり、いまだ辺縁系という『マーラの門』をくぐってはいない。もちろんやがて彼の辺縁系は確実に目覚め、空腹を覚えれば授乳を求めて泣き、不快を感じればまた泣き叫ぶだろう。だがここで最も重要なのは、ある程度確立された自我意識において明らかな、『排他』という衝動がそこにはほとんど全く見られない事だ。


ヨーガ・アサナとは赤ん坊の脳神経活性を取り戻し
瞑想の深みへと降りるための準備運動である。


誕生という嵐のようなイベントを過ぎた彼の魂はやがて静かな安らぎと共に息づき、眼を合わせる全ての他者に対して微笑みをもって答える。これを新生児微笑という。それは文字通り天使(菩薩?)の微笑みとして、そこに立ち会う全ての魂を癒さずにはおかないのだ。

生物学的にはこの新生児微笑を始めあらゆる動物の赤ん坊に普遍的な可愛らしさは、親や大人の庇護がなければ生きていけない無力な赤ん坊の生存戦略、そう説明されている。しかし、本当にそれだけだろうか?そこには私たちの魂が持つ、無条件の親愛性という本質的な原風景が、表れてはいないだろうか。

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