2012年7月14日土曜日

シッダールタと外科医学


これまで私は、脳は車輪であると書き綴ってきた。

しかし、脊髄・脳幹が体内の須弥山であり車軸なのはともかく、脳はどう見ても車輪には見えない。それはブロッコリーのこんもりした蕾か、木の樹冠か、あるいはある種のマッシュルームか、そんな風にしか見えないと言う人も多いだろう。かくいう私もその一人だった。

だが、脊髄と脳幹(スシュムナー管)が体内の須弥山であり車軸であるならば、大脳以外に車輪に相当する器官は存在しない。この仮説を元にネット上で数百枚に及ぶ画像を精査した結果、私は明確な証拠を発見した。

大げさではなく、その瞬間、私は戦慄を禁じ得なかった。

今回は最初にその画像を見てもらおうと思う。

6分割された大脳。上が顔。中央矢印部分に
脳幹がつながり、その周囲が辺縁系だ。

これは眉間の上、ちょうどアジナー・チャクラのあたりからやや斜め下に向けて頭部をスライスしたCT画像だが、ここには明確に6つの区分が見て取れる。

まずは真ん中で左右脳半球を分ける正中線。そして左右それぞれに前頭葉、側頭葉、後頭葉の3つで計6分割。脳幹がつながる中央からその区分は放射線状に仕切られ、多少いびつだが、見事に6本スポークの車輪を形作っている事が分かるだろう。

もちろんシッダールタは、この解剖学的事実を知っていた。

そして、この形が、アーリア人のラタ戦車の車輪と、インダスのチャクラ文字とも重なる事に思い至った時、この偶然の符合は様々な連想を可能にしていく。


 
脳構造とインダスのチャクラ文字とアーリア人の車輪
この三者が重なり合うのは、本当に偶然なのだろうか?

CTなんぞ持たない古代インド人がどうやってこの様な内部構造を『見る』事ができたのか、という当然とも言える疑問に対しては、下の画像を提出したい。これは脳と脳幹を丸ごと頭蓋内から摘出し、裏から見た姿だ。

底部から見た脳と脳幹。下に並ぶのは小脳。

中心から放射状に六分割された丸い脳、その中心から棒状に突き出る脳幹。シッダールタにとって、正にヴィジュアル的なリアリティとして、脊髄・脳幹は車軸であり、大脳・辺縁系は車輪だったのだ。

だからこそ、前回書いたように、
輪廻する苦悩の車輪から解脱して、車軸であるプルシャ・アートマンの悟りに至るためには、同じ車輪である大脳・辺縁系から離脱して、車軸である脊髄・脳幹の身体呼吸意識に止住するアナパナ・サティこそが正しい道になる。
という判断が成立した訳だ。

彼が、そのような解剖学的な知識を持っていた根拠として、前回スシュルタ外科医学について取り上げた。スシュルタ医学の祖師として崇められるダンヴァンタリはベナレスに住まうクシャトリアの王だった。

そもそも何故武士階級であるクシャトリアに外科医学が発達したかと言えば、実戦的かつ実践的なニーズから、武術と軍医学が一体となって治療術が大成されたと考えるのが合理的だ。

これは外科を意味する原語のSalyaが元々鏃(矢じり)を意味し、身体に入った異物(例えば戦士が受けた矢じり)をメス(矢じりの様な)で摘出する手術から始まった、という点からも裏付けられる。

当時の北インドには、大きく二つの文化圏が存在していた。ガンジス川の上流域、現在のデリー周辺に地盤を持つ純度が高いアーリア系の農村文化圏と、ガンジス川の中流域、現在のベナレス周辺でドラヴィダ系やモンゴロイド系の先住民にアーリア系移民が混じり合って築かれていた商業都市文化圏だ。

デリー周辺では保守的なバラモンを頂点とした封建的な身分差別社会が形成され、商業は賤業として卑しめられていた。けれどもリベラルな中流域のコスモポリタンたちは自由経済を尊び、都市の繁栄を謳歌していた。その都市文化を支えていたのが、クシャトリア達が持つ武力による統治能力だった。

日本の歴史で言えば、織田信長が楽市楽座を布告して商業の発展を促したのと同じような状況だったと考えれば分かりやすい。

シッダールタは、その同じガンジス川の中流域に、小なりとは言えクシャトリア王国の王子として生まれた。帝王学の一環としてクシャトリアの軍医学、スシュルタ外科医学の基礎を一通り身に着けていたとしても、不思議ではない。また、王子だったシッダールタにとっては、御典医としての医師と関わる機会も多かった事だろう。

パーリ仏典には、これはシッダールタが悟りを開いた後の話だが、ジーヴァカという名医が開頭手術を行ったという記述が存在する。このジーヴァカはブッダのサンガともかかりつけ医的な親しい関係にあった様で、この辺りも、外科医学と縁の深いクシャトリアつながりを想定すると理解しやすい。

この時ジーヴァカは、脳外科手術によって腫瘍の様なものを摘出したらしいのだが、これもそもそも正常な脳の構造を知っていなければ、異常を摘出する事などできない。そう考えれば、当時すでに、一通りの脳解剖学的知識が確立していたと判断できるだろう。ひょっとすると機能論的認識もある程度存在したかも知れない。

医者と言えば、時代や場所を問わず、当代随一の科学者であり知識人である。これら医学者との関わりを通じて、シッダールタが科学的知識と合理的思考法を身に着けていた事は、まず間違いないだろうと思う。この点に関しては、中村元博士なども同様の見解を述べている事は注目に値する。

そして、クシャトリアという武士階級にはもうひとつ、武術という科学の体系が存在する。その名をダヌル・ヴェーダと言う。

私はケララ州で世界最古の伝統武術と呼ばれるカラリパヤットを数年に渡って取材してきたが、彼らの知識体系の中で特筆すべきものは、アーユルヴェーダという療術のシステムと、マルマンと呼ばれる急所の知識だった。

前者はスシュルタの系譜を引いた軍医学の流れとケララ土着の薬草学が合流したものだ。後者はおそらく、遊牧民だったアーリア人が家畜動物を自由に制御する技術から戦場の武術へと発展した、そう私は考えている。

現代でも、例えばモンゴルの遊牧民は、牛などの大型家畜を屠殺するときは、ある種の関節技を駆使し抵抗をさばいて四肢を縛り、できるだけ苦しめずにしかも自らも安全なように、第一級の急所である延髄、すなわち呼吸中枢を破壊して瞬殺する。

それはもちろん戦場において敵を倒すためにも、第一級の急所になる。特に諜報活動や暗殺などには必須の技術だったろう。戦士としてのシッダールタが、延髄という呼吸中枢の存在を知っていたとしても、決して驚くべきことではない。

古代の戦士とはある意味、治療も含めて肉体の構造と機能に関するエキスパートだった、と言っても過言ではないのだ。

しかし、若い頃から医学と親しい関わりを持ち、武術の急所として延髄が呼吸中枢である事を知っていたとしても、あのような、ふつう現代の一般教養人ですらあまり知らない『脳内の車輪構造』などという解剖学的事実を、本当にシッダールタは知っていたのだろうか。そういう疑いもある意味もっともだと思う。

だが、シッダールタが悟りを開く以前、その生活史の中には、正にまざまざと脳の解剖学と向き合う濃密な時間が存在していた。

それが6年間の苦行期間だ。


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