2012年8月16日木曜日

最古の都市、チャクラ・シティの民


前回私は、インド文明の一方の担い手であるアーリア・ヴェーダの民が、どのような歴史を経てインドに辿り着いたか簡単に述べた。それは、故郷であるコーカサス北部の大平原からカイバル峠までのおよそ7000㎞を、数百年かけて定住と移動を繰り返し続けた、旅の歴史だった。

このコーカサス北部からカイバル峠の間、中央アジア周辺に、彼らの旅路の痕跡とも言える遺跡が発見されている。それは彼らがチャクラの民であった事をまざまざと物語っていた。それがシンタシュタ-ペトロヴカ文化だ。

赤い部分がシンタシュタ文化の中心エリアで、ピンクが
スポーク式車輪の発見エリア。オレンジは後継文化の広がりで、
緑のBMACエリアを通じてインドに繋がっている。

シンタシュタ-ペトロヴカ文化とはロシア南東部チェリャビンスク州にある村の名前に由来し、アーリア系の部族集団によってBC1800年前後の数百年にわたって発展継承された文化コンプレックスだ。

それが直接インド・アーリア人の祖先であったかは論議の的だが、インド・アーリア人と同じ母集団から派生し、文化的な起源を共有する事は間違いない。

シンタシュタ文化を特徴づけるもの、それがチャリオット葬と呼ばれる独特な埋葬法だ。これはラタ戦車と馬をその主と共に埋葬する方法で、世界最古のスポーク式車輪をはいたラタ戦車がここで発見された。

これはヴェーダの時代にインド・アーリア人によって盛んに行われたアシュヴァ・メーダ(馬祀祭)の祖形だと考えられている。

そしてこのシンタシュタ・コンプレックスの中に、本ブログの文脈上特筆すべき遺跡が存在している。それが1987年にチェリャビンスク市の調査団によって発掘されたアルカイムの城塞都市だ。

アルカイム遺跡、空撮

立体モデルと内部構造

城塞都市の設計プラン。二重円環構造はマンダラ・シティとも命名された

これは直径100200mほどの堀を巡らした環状の土塁の上に、木製の柱や梁で建てられた城塞都市で、写真や図形を見ると一目瞭然なのだが、明らかに車輪のデザインを彷彿とさせる形をしている。チャリオット葬と合わせて考えれば、まず間違いなく、これはチャクラ・シティだったのだろう。

アルカイムの遺跡は、研究者によってインド・アーリア人による最古の都市遺跡と認定された。

シンタシュタ-アルカイムの城塞都市群
明らかに同一プランで設計され、車輪との関連が想定できる。

彼らは太陽を中心とした天体祭祀を行っていたという報告もあり、この環状都市の形は何らかの意味で天体観測と関係していたかもしれない。またこの祭祀に関しては、リグ・ヴェーダにおける太陽神群との関連も指摘でき、この都市が、神殿を中心とした宗教都市であった可能性も高い。

ひょっとしたらシンタシュタ文化の城塞都市群は、チャクラ・シティであると同時に、太陽神を崇めるスーリヤ・シティだったのかも知れない。

日輪(太陽・スーリヤ)と車輪は重ね合された。

リグ・ヴェーダには多くの太陽神が登場するが、アーリア人の東征との関わりでは、曙光
(朝焼け)の神ウシャスが注目される。

『繰り返したち返る光明は、暗黒より離れ、東方に現われたり~輝かしき天の娘ウシャスらは、人間に道を開かんことを』『ウシャスは常に輝きぬ、今またさらに輝かん、車両を躍動せしむる女神は』(辻直四郎訳)

彼らにとっての民族的アイデンティティはチャリオット=ラタ戦車であり、他民族に対する優位性の源であるスポーク式車輪は、その象徴であった。そして、怒涛のように戦場を駆け巡る戦車の威力、その回転する車輪のデザインと力強さが、天空を巡る太陽のイメージと重なり合い、ここにラタ戦車で天空を駆け巡る太陽神のイメージが出来上がったのだろう。



天駆ける日輪の神、スーリヤ

そして、太陽の生まれいずる場所、力と豊かさの源である東天に対する憧れが、彼らをして更なる東征へと駆り立てていったのかも知れない。


やがてカイバル峠を越えて、ついに紀元前1500年、アーリア人はインド亜大陸に進入した。侵略の対象になった先住諸民族は、その高性能機動戦車の威力の前になすすべもなく屈服するしかなかった。
この記事は、ヤフー・ブログ版 From The Planet INDIA と連動しています。 

このブログ内容は広く知られる価値がある、と思った方は、下記をクリックください 

0 件のコメント:

コメントを投稿