2012年6月28日木曜日

チャクラ思想の2大源流とその展開

インドにおける、チャクラ思想の真実を求めて旅を続けた私は、やがて2つの源流にたどり着いた。ひとつは紀元前1500年に北西インドに侵入した、侵略者アーリア人の文化的伝統であり、もうひとつは紀元前2000年ごろその最盛期を迎えた、インダス文明の伝統だった。

アーリア人とは、紀元前2500年ごろ東ヨーロッパ、現在のウクライナ周辺に勃興した民族集団だ。大平原に遊牧を主とした生計を営んでいた彼らは、やがて紀元前2000年ごろ、木製スポーク式車輪を世界で初めて開発した。

それ以前に普及していたのは、木の板を張り合わせて作った鈍重な車輪だった。それに比べスポーク式は、革新的なハイテクノロジーだったのだ。そのハイテク車輪を履かせたラタ戦車を馬に牽かせ、その圧倒的な機動力の優位によって、彼らは西ヨーロッパ、地中海世界、中央アジアへと進出していった。

中央アジアを東進したアーリア人は、やがて現在のイランにその一派が定着し、さらに東の果てまで進み、カイバル峠を越えてインド亜大陸に侵入した。このインドまでたどり着いた集団を、インド・アーリア人と呼ぶ。彼らはヴェーダの祭式を重んじる、極めて宗教的な部族集団であった。

ラタ戦車の圧倒的な武威によって西ユーラシアを席巻した彼らにとって、その威力の中心であるスポーク式車輪は、偉大なる転輪武王の象徴であると同時に、神々の神威をも象徴するシンボルとなった。

この点に関してはチャクラの国のエクササイズ・チャクラ意識の源流1以下を参照して欲しい。

ここで重要なのは、ラタ戦車に使われていた車輪のスポーク本数が、6本であったことだろう。6本スポークの車輪は、正にアーリア人の神威を象徴するシンボルだったのだ。

エジプト古代王朝・ラムセスⅡ世が乗る戦車 
この図柄はラタ戦車の原像をよく表している
高速機動戦車を駆って弓矢を速射するという
この戦術が、アーリア人の強さの源だった

そしてもうひとつの源流。それは紀元前2500年頃から栄えはじめ、紀元前1700頃に忽然と滅びた、インダス文明に他ならない。

当時インダス文明は、メソポタミアなど地中海世界周辺の文明圏とも交易を通じて深く結びついていた。しかし、その遺跡からは巨大な軍事力を想起させるようなものが発見されておらず、その文化の実態については未だ謎に包まれている。

瞑想するヨーギ。シヴァ神パシュパティナートの原像か

しかし、インダス・シールと呼ばれる石製の印章に刻まれた様々なデザインによって、彼らが瞑想実践を中心に据えた極めて宗教的な人々であった事が推定されている。その彼らの神性を表すシンボルが、これは『神』の悪戯としか思えないのだが、6本スポーク車輪を思わせる、図形だったのだ。これは分かりやすく言うと、6Pチーズのデザインを単純に線描した形になる。

インダスの印章、チャクラ文字

このチャクラ文字は、近年発掘が進むドーラヴィーラの遺跡においても、神殿と思しき施設のゲートに掲げられた、世界最古とも言われる看板に複数個刻まれていた事によって、一躍注目を浴びた。


ドーラヴィーラのサインボード

このチャクラ・シンボルはインダス文明崩壊後も瞑想ヨーガと共にインドの先住民に継承され、紀元前1500年のアーリア人侵入に伴ってもたらされたラタ戦車の車輪と重なり合って、ここにインド神聖チャクラ思想の基盤が確立した。私はそう考えている。

この間の詳細については、チャクラの国のエクササイズ・チャクラ意識の源流4を参照して欲しい。

ラタ戦車の車輪を構成する部品は大きく二つに分ける事ができる。車台に固定された車軸と、その車軸にはまる事によってスムースな回転を得る車輪だ。実はこの車軸と車輪というセットこそが、常に合い携えてインド思想の基盤をなしてきた。これが私の中心仮説だ。

そして勿論、正にこの輪軸の思想こそが、ブッダの悟りとそれをもたらした瞑想法の作用機序とも密接に関わっていた。これが本ブログの論述を支える、最も重要な基盤となる。

この様なチャクラ思想は、シッダールタ在世当時も、様々なヴェーダを始め日常生活の隅々にまで、知識階級や修行者の間では一般常識としてすでに浸透していた。シッダールタは正にチャクラ思想の申し子として生まれ、育ち、修行し、悟りを開いたのだ。

アマラヴァティ遺跡で発掘された蓮華の車輪

ヨーガ・チャクラ図は体内の車輪を表す

玄関先に描かれた吉祥文様ランゴーリ

パッラヴァ朝時代の天井華輪彫刻

踊るシヴァ神・ナタラージャ神像に内在するチャクラ

チベット仏教タンカ・六道輪廻図

上の図版の背後にある輪軸思想の導入部については、
チャクラの国のエクササイズ・チャクラを制する者は1~6
チャクラの国のエクササイズ・展開するデヴィ・シャクティ1~6を参照して欲しい。


次回は、このインド輪軸思想の核心と、シッダールタとの結びつきについて、詳述したい。


2012年6月27日水曜日

転法輪の謎 ~ 何故それは、車輪だったのか?


仏教の四大聖地と言えば、シッダールタ誕生の地であるルンビニ、成道正覚の地ブッダガヤ、初転法輪の地サールナート、そして死の床に就いたクシナーガラが上げられる。

菩提樹下で禅定し正覚を得たブッダ
これはサールナートで説法する姿なのだろう
最初の5人の弟子と鹿も描かれている

中でも重要なのが、菩提樹下で覚りを開いたブッダガヤと、最初に法を説いたサールナートだろう。紀元後に仏像表現が生まれるまで、ブッダそのものを表すものとして掲げられた菩提樹と法輪は、正にブッダガヤとサールナートの重要性を象徴している。

サールナートで出土したアショカ石柱のライオンヘッド
これはレプリカだが、基壇には美しい法輪が見える

ここで注目したいのはサールナートだ。正覚後のブッダが、かつて一緒に苦行をしていた五人の修行者に向けて、初めてその悟りの内容を説いた事績を、『法の車輪を転じた』、と表現している事にわたしは引っかかったのだ。

何故それは、法の『車輪』でなければならなかったのか。皆さんはそんな事を考えた事があるだろうか。私はあるきっかけから、はからずもそんな疑問に取りつかれるようになった。

例えば、古い仏典には「煩悩の激流をいかだで渡る」などという表現が多く現れる。ならば、別に車輪でなくとも、『法の筏を漕ぎ出した』という表現でも良かったのではないか。

何故、それは『車輪』でなければ、ならなかったのか?

話は1995年に遡る。この年の1月末、初めてインドを訪ねた私は、そこで7大仏跡を巡り、ヨーガを学び、上座部系のヴィパッサナー・メディテーションを経験し、その後約3年の間インド世界を放浪した。

その流れで、帰国後の1998年からは合気道の修行を始めた。それは、動的な『禅』という視点からだった。その後2004年、和歌山県で林業に携わり、ごく普通の生活を送っていた私は、ある時、テレビでインド武術について放送すると知り、深い関心を抱いた。

3年間もインド世界にいながら、当時の私はインドに伝統武術があるなどとは考えた事もなかった。インドでは、すべての身体文化がヨーガや瞑想と深く結びついている。ならばインドの伝統武術とは、一体どのようなものなのか。

そのテレビ番組で、私は初めて、ケララ州の伝統武術カラリパヤットに出会った。それは同時に、棒術の回転技というエクササイズとの出会いでもあった。

画面の中で繰り広げられるインド棒術の回転技。それはとても不思議なものだった。背丈ほどの棒の真ん中をつかんで、片手でひたすら回していく。回しながらその回転を止めることなく、右手から左手、左手から右手へと持ち替えていき、とにかく身体の周り、あらゆる方向でひたすら回していく。


カラリパヤットの回転技ワディ・ヴィーシャル

肌の黒い男達が見せるその回転技の軌跡はとても美しく、あたかも巨大な車輪が身体の周りを回転しながら翔け巡っている様に見えた。

『これは、転法輪の棒術に違いない』

それは全く根拠のない、しかし確信に満ちた直観だった。

(詳細はチャクラの国のエクササイズ・プロローグを参照ください)

20059月、仕事も辞め身辺を整理した私は、再びインドの地に立った。今回の目的は2つあった。それは、実際にインド武術を経験し、身体運動と瞑想がどのように有機的にリンクしているか知る事と、もうひとつは棒術の回転技が本当に『転法輪の技』なのか確認することだった。

ケララ州に向かいカラリパヤットの道場に入門した私は、そこでインド武術の奥深さに魅了された。同時に棒術の回転技にもほれ込んで、その後現在に至るサンガム印度武術研究所の活動へと続いていくのだが、本ブログでは割愛する。


私はその後ケララ州から離れ、インド全土の様々な伝統武術を取材して巡るうちに、インド世界には車輪、すなわち『チャクラ』の表象があふれている事に気が付いた。

車輪というシンボルを、その聖性の象徴として掲げているのは、仏教だけではなかったのだ。

オリッサ州コナーラク 太陽寺院の巨大な車輪

南インド・ヴェンカテシュワラ寺院
車輪の御神体を沐浴させるチャクラ・スナーナム

なぜ、様々な宗教において、派閥横断的に聖性のシンボルとして、『車輪』が共有されているのだろうか? 何故それは、車輪でなければならないのだろう。

やがて私の関心領域は完全に武術からは離れ、いつしかインド思想において車輪(チャクラ)が持つ『意味』について、深く考え、探求する方向へと向かって行った。



次回はチャクラ思想の2大源流から説き起こします。



2012年6月16日土曜日

沐浴の瞑想的なはたらき

インドでは、聖なる河で沐浴をする。

早朝、たとえば母なるガンジス河の岸辺に向かい、
ガートを降り、河に入り、腰ほどの高さまで水に浸かり、陽の出を待つ。

やがて曙光の煌めきと共に彼は合掌し、鼻をつまんで息をこらえ、
垂直にしゃがみこんで、頭まで水に浸かり、そして立ち上がる。
垂直にしゃがみこんで、頭まで水に沈み、そしてまた立ち上がる。

この動作を、2回3回と少し足早に繰り返したのち、
立ったまま息ごらえを解いて、大きく息をつく。

そして生まれたての太陽に向かって再び合掌した彼は、
そこでガヤットリー・マントラを唱えるのだ。

体性感覚とは、脊髄・脳幹・頭頂葉を貫く一本の軸柱だ

母なる聖河の水中に身を没している姿は、
母胎の羊水に包まれた胎児をあらわしている。

水面を突き破って、頭から空気中に飛び出す姿は、
産道を通って誕生する瞬間をあらわしている。

空中に出て呼吸を開始する姿は、
正に産声を上げる新生児の姿をあらわしている。

そこでおぎゃーという泣き声の代わりに詠われるガヤットリー・マントラ。
それは『覚り(神)の光が与えられますように』という祈り。

正式には、ガヤットリー・マントラは108回唱えられ、
煩悩の数と同じだけ唱えられたこのマントラの誓願によって、
瞬間、人の心は煩悩から解き放たれる。

再開される呼吸はアナパナ・サティであり、
静かに皮膚を流れ落ちる滴は、
体性感覚のヴィパッサナーを現している。

インドでは日々の生活の中で、常に様々な瞑想実践がシミュレートされている。

シッダールタが苦行の森を捨て、ナイランジャー河の畔で沐浴した時も、
まったく同じシミュレーションが働いたのだろう。

そして彼は、その作用機序に気がついた。

そして、彼は菩提樹の下に禅定した。


2012年6月12日火曜日

アナパナ・サティ ~ 呼吸意識の本質


脊髄と延髄が持つというその非情動性について、ここではまずブッダの瞑想法であるアナパナ・サティ(呼吸への気づき)との関連性から、呼吸中枢である延髄(+橋)の性質について考えてみよう。

大脳や小脳を樹冠にたとえれば、脳幹は文字通り樹の幹になる

延髄から見て、情動の門である大脳辺縁系の向こう側の世界は、排他と利己という情動、すなわち『マーラ』に支配された『サンカーラ』の論理によって統べられていた。その強大な力は、人類において格段に発達した前頭葉的な理性と利他の性質によっても、未だ十二分にコントロールし得ない獣性に他ならない。

その獣性は、私たちが動物として生存し子孫を残すために必要な、食料と配偶者という2つの資源が、基本的に他者と争って相互に敵対排除するプロセスを経て勝ち取られなければならない資源だったからだ。生物学ではこれを、環境中に限られた食と性を巡る熾烈な資源獲得競争と端的に表現する。

もちろん生き続けようと欲すれば、身の安全を確保しあらゆる危険を避ける必要がある、という大前提も忘れてはならない。

わが身を守る為には毒蛇を避け安全なねぐらを確保しなければならない。おまんま食うためには一生懸命他人に先んじて稼がねばならず、きれいな嫁さんをゲットするためにはライバルを蹴落として勝たなければならない。

私たちはそのような営みを、実に億年単位の長きにわたって繰り返し、現在に至っているのだ。考えてみれば、その前世の業、はなはだ深し、である。

しかし翻って、呼吸中枢によって獲得されるべき空気(酸素)はどのような性質を持っているだろうか。それは他者と争って勝ち取らなければ獲得できない希少な資源だろうか。

酸素を獲得するために、私たちは現在に至る億年単位の歴史の中で、いまだかつて一度でも他者と争った事があるだろうか? 

空気を呼吸するためにもがき苦しみ、額に汗して努力したことがあるだろうか。どの空気は毒があり、どの空気は栄養があるなどと選択を迫られる事があっただろうか。

あるいは、一息吸うごとに快楽に溺れ、一息吐くごとに苦痛にあえぐなどという事があり得ただろうか。

答えは明確にNOだ。確かに水に溺れる、病的な呼吸困難に陥る、あるいは誰かに首を絞められるなど非日常的な特異な状況下では、酸素を得るために私たちはもがき渇望する。しかしそのような状況下においてさえ、そこには性と食に見られる様な、『排他的』利己性、そして煩悩する『私(わたくし)』は微塵も存在しない。ただそこにあるのは、浜辺に寄せては返す、波の様な無心である。

空気、それは環境中に常に万遍なく存在し、すべての他者と分かち合い共有されるべき資源だからだ。

私たちは日常において、すでに獲得した呼吸に我を忘れて陶酔し、次の瞬間にはそれを失うかもしれないと恐れる事もない。それは疑問の余地のない自明として、アプリオリに十全に何の努力もせずに、自ずから与えられているからだ。

呼吸意識の基盤には一抹の不安もないという意味での『絶対安心』が存在する。

呼吸意識。それは数十億年という気の遠くなるような生命進化の歴史の中で、一度としてブレることなく一貫して排他的利己性に基づいた情動、すなわち『マーラ』とは完全に無縁でありつづけた。同時にそれは、快と苦の両極性を離れた中道意識に他ならない。それはまさに『仏性』そのものだと言えないだろうか。

そこにこそ正に、ブッダが苦行を捨ててアナパナ・サティの瞑想に決定(けつじょう)した理由がある、そう私は考えている。

アナパナ・サティの瞑想実践を深めていくにつれて、おそらく私たちの日常意識は、マーラの支配下にある大脳世界のあらゆるマトリックスを失ってこの仏性に限りなく近づいていく。それはヒンドゥ・サーンキャ哲学において、プルシャたるアートマンが『気息』に譬えられた事と見事に重なり合う。

その気息に止住し、そこから世界を観照した時、彼は一体何を見るのだろうか。そして気息へと深く下降していくプロセスにおいて、あるいはそこから帰還するプロセスにおいて、彼は一体、何を目撃するのだろうか。

もちろんこの瞑想において私たちの心が『リカバリ』されたとしても、それが完了した時に全ての記憶やソフトウエアが消去されているわけではない。私たちは基本的に今までと同じマトリックス世界に立ち返らなければならない。

それはいわばマトリックスの領域、すなわちサンカーラがプログラムとしてインストールされた領域からそれがインストールされていない領域への一時的下降離脱のプロセスだからだ。

けれども、もしこのプロセスがシッダールタの到達した領域にまで至った時、あるいはそこまでいかなくても、明らかに有意なボーダーラインを超えた時、私たちの日常意識に劇的な変容が立ち現れる事は十分に考えられる。

何故なら、その時彼はマトリックスの夢から完全に目醒め、その虚構性についてまざまざと観る事ができるからだ。そのプロセスをヴィパッサナーと言う。

ここに提出した『インストール宗教とアンインストール宗教』という思考の枠組みは、あくまでも暫定的な作業仮説に過ぎない。しかし、私の直感では、この方法論を採用する事によって、ブッダの教えを脳科学・生態学・進化生物学など現代科学の最先端の言葉に翻訳する作業が、限りなく高い整合性を持って、可能になる、そう感じている。

このブログにおいて提示される思索は、苦悩にあえぐ人々がブッダの瞑想法によってその苦しみから解放されていくリアルな『薬理的作用機序』を、万人に理解可能な合理的な形で明らかにする事を目指している。

もちろんこの挑戦は、あくまでもマトリックス世界の内部で知的に行われるものに過ぎない。どんなに論理的にブッダの悟りに近づいても、それがイコール悟りそのものの体験では絶対にない事を、忘れてはならないだろう。実際の悟りとは、正に大脳的マトリックスからの離脱なくしては到達不可能なのだから(2000年以上続く、行と学の二律背反!)。

次回からは、私の主観的な直感を、様々なデータ、個々の事例と共に細部にわたって客観的に検証していこうと思う。その作業を進める上で最も重要になるキーワード。それがインド世界に数千年にわたって通奏低音の様に伏流する『チャクラ(輪軸)のシンボリズム』だ。


新幹線0型車両の輪軸
全ての思索はここから始まった

まずは次回予告もかねて、この輪軸の写真を最上部に載せた脳構造図と重ねてみて欲しい。




2012年6月10日日曜日

ブッダの瞑想法とは魂のリカバリである


インストールするセキュリティ・ソフト型宗教と対置される形で、もう一つ全く別の宗教形態が存在する。それが『アンインストールするリカバリ型宗教』だ。これは原理的に、この地球上で唯一カルトではない宗教になる。全ての宗教はカルトである、という先の定義に従うのならば、これはもはや宗教ではない。このカテゴリーに所属し、その完成度を最大限に高めた教えこそが、ブッダの瞑想実践に他ならない。

仏教の核心にあるブッダの悟り。シッダールタがこの悟りの境地に到達し全ての苦悩から解き放たれた作用機序とは、本質的に信仰ではなく瞑想実践によってアクティベートされる。それは具体的には、アナパナ・サティと呼ばれる『呼吸への気づき』という心的活動に始まり、そこに終わる。

だが、この2つの宗教形態、すなわちインストール型とアンインストール型はまったく別々に無関係なものでは決して無い。その作用機序には明確な違いがみられるが、インストール型宗教にもアンインストール型の働きが『行』という形で多かれ少なかれ内包されており、アンインストール型宗教にもインストール型の『信仰』がその作用過程で重要な役割を担っているからだ。

しかしやはり、この2つは本質的に真逆の方向を志向する。それはそれぞれのネーミングが直接的に表している通りなのだ。世界中のほとんど全ての宗教が、OSである自我意識にインストールされるセキュリティ・ソフトなら、アンインストール型の仏教とは一体何だろうか。

それは、アンインストールという言葉が直接示唆する様に、すべてのソフト・ウエア/アプリケーションが『止滅』した魂の初期状態、人間の場合は誕生直後の赤ん坊の出荷状態に還る完全リカバリを意味するだろう。

長年使ったパソコンがどうしようもなく重くなり、様々なトラブルを頻発するようになって、可能な限りソフトウエア的対策を講じてもにっちもさっちも改善の兆しが見られず、もはやその運用に困難をきたした時、私たちは何をするだろう。その時に私たちが取る最終手段、それこそがこの完全リカバリに他ならない。

母親が赤子を産み落とす行為を、英語ではデリバリーという。文字通り赤ちゃんはこの現象世界に『出荷』されるのだ。その誕生の瞬間、新生児はオギャーと泣き叫ぶと共に力強く呼吸を開始する。それは彼にとって全く新しい鮮烈な感覚をもたらすに違いない。

その時彼は、手足をばたつかせると同時に、羊水の海から空気中へと移行した衝撃を、産道を通過する際の強烈な感覚を経て、何よりもまず察知される水と空気の質感や温度の違い、すなわち皮膚感覚で感じ取ることだろう。

聴覚については胎児の時から一定の活性をもって様々な環境音を聞き取っているらしい事が分かっている。しかしそれは未だ明確な意味の体系としては焦点を結んでおらず、母親の声以外は単なるBGMに過ぎないだろう。

つまり、出荷状態の人間意識の原風景とは、呼吸意識、体性運動意識、そして体性感覚意識の三位一体であり、基本的にこの3つのファンクションは、パソコンに譬えた場合、ハードウエアに付属し最初からビルトインされているファームウエアに相当する。

コンピューターにおいて全てのソフトウエアは基本的に0と1という2進法のマトリックスによって記述される。新生児におけるこの出荷直後の純粋意識は、いまだOSである自我意識のマトリックスさえ記述されていない最小限のファーム意識であり、大脳的には『エンプティネス』を体現している(この時点では大脳的なニューロン・ネットワークはその配線すらされていない!)。そこにはもちろん、OSのアプリに過ぎない言語的シンキング・マインドなど未だ書き込まれていない。

彼の魂は、脊髄・延髄という非情動性の中枢に留まり、いまだ辺縁系という『マーラの門』をくぐってはいない。もちろんやがて彼の辺縁系は確実に目覚め、空腹を覚えれば授乳を求めて泣き、不快を感じればまた泣き叫ぶだろう。だがここで最も重要なのは、ある程度確立された自我意識において明らかな、『排他』という衝動がそこにはほとんど全く見られない事だ。


ヨーガ・アサナとは赤ん坊の脳神経活性を取り戻し
瞑想の深みへと降りるための準備運動である。


誕生という嵐のようなイベントを過ぎた彼の魂はやがて静かな安らぎと共に息づき、眼を合わせる全ての他者に対して微笑みをもって答える。これを新生児微笑という。それは文字通り天使(菩薩?)の微笑みとして、そこに立ち会う全ての魂を癒さずにはおかないのだ。

生物学的にはこの新生児微笑を始めあらゆる動物の赤ん坊に普遍的な可愛らしさは、親や大人の庇護がなければ生きていけない無力な赤ん坊の生存戦略、そう説明されている。しかし、本当にそれだけだろうか?そこには私たちの魂が持つ、無条件の親愛性という本質的な原風景が、表れてはいないだろうか。

2012年6月9日土曜日

宗教とは何か3 ~ ブッダの瞑想法とは


宗教というセキュリティ・ソフトがインストールされるのはどこだろう。それは一見理知性の大脳であるように見える。いわゆる世界宗教などを見れば、膨大な神話や教義が正に大脳的な言語概念で提示されているからだ。しかし未開社会における宗教の起源を見れば、それは原始的な情動である自己愛に発しており、例え文明的に発達した宗教であっても、それが起源しアクティベートされるのは情動の脳、すなわち辺縁系における『信仰』という理屈を超えた心的態度であるのは明白だろう。

全ての宗教概念は言語という媒体機能を通じて共有(インストール)される。しかしそれがアクティベートされてセキュリティ・ソフトとして実効力を発揮するためには、辺縁系に発する信仰(情動)という解発因が必須なのだ。

例えば、若くして夫を亡くした母が、まだ幼いわが子にこう言って聞かせたとしよう。

「お父さんは、決してAちゃんを捨てて消えてしまったのではないのよ。お父さんはね、夜空のお星さまになっていつもあなたを見守っていて、何か困ったことがあったら必ず助けてくれる。だからAちゃんもお父さんに褒められるように頑張ってね。」

もしAちゃんがこの『神話』を一時的にも『信仰』することができれば、彼の傷ついた心はより速く回復し、神話を信じる事ができずに苦悩し続ける場合に比べて、より前向きに力強く生きていく事ができるだろう。それは彼の『適応価』を確実に高めている。母が子に語ったこの『神話』は典型的なセキュリティ・ソフトとして、彼の心に影を落とした苦悩というウィルスを、適切に駆除する事に成功したのだ。

お星さまになった父、それはあらゆる『神』の原風景だ

ここに宗教というものが持つ、もうひとつの機能的原風景が存在する。彼がお星さまになった父に対して抱く思慕と信頼の感情は、そのままあらゆる宗教における超越的神格に対する信仰心の萌芽とも言えるだろう。

まとめると以下のようになる。

『宗教とは、大脳に宿ったOSである自我意識が、自身の持つ本質的な脆弱性をカバーするために自ら創造したセキュリティ・ソフトであり、その機能は、辺縁系に発する排他と利己という生物学的情動を支え励ますと同時に、社会的な適応価を高めるためにその情動を適宜抑制し、その利己的な生存意思を踏みにじるような過酷な経験によって自我意識が深く傷ついた場合、その苦悩をウィルスとして感知し駆除するものである。そしてこれらの効能が働くためには、人の心が持つ超越者に対する信仰という心的態度が、その解発因として何よりも必須となる。』

私はこの様な宗教を、『インストールするセキュリティ・ソフト型宗教』と便宜的に呼びたいと思う。そしてここでは、このタイプの宗教をすべて『カルト』と呼ぼう。このカテゴリーにはおよそこの地球上に存在する99%の宗教が含まれる事になる。ほとんどすべての宗教は『カルト』なのだ。

そしてこのインストールする宗教と対置される形で、もう一つ全く別の宗教形態が存在する。それが『アンインストールするリカバリ型宗教』だ。これは原理的に、この地球上で唯一カルトではない宗教になる。全ての宗教はカルトである、という先の定義に従うのならば、これはもはや宗教ではない。このカテゴリーに所属し、その完成度を最大限に高めた教えこそが、ブッダの瞑想実践に他ならない。

2012年6月7日木曜日

宗教とは何か 2 ~脳に見る貪瞋痴の基盤


全ての生物個体は、いわゆる『利己的な遺伝子』の発現の結果としてこの世に存在しその生を営んでいる。その根底には『排他と利己』という強力なコマンドが存在する。彼の全ての行動原理は、正にこのコマンドによって貫徹されていると言ってもいい。

人間もまたその例外ではない。それはあらゆるスポーツやゲームを見れば一目瞭然だろう。例えば野球やサッカーを見てみよう。そこでの至上命題は敵の得点をいかに妨げ、自分がいかに得点をあげるか、という事に尽きる。分かりやすく言えば、他者に得をさせず、自分が得をする。正に排他と利己の人生ゲームだ。

人々はその戦争シミュレーションを観戦して興奮し、自らを同一化した贔屓チームの勝利には雄叫びを上げて歓喜する。

この排他と利己という本能的な情動を、正に推進し強化統合するためにこそ、宗教が生まれ発達し続けてきた事実は、未開氏族の氏神の機能を見れば一目瞭然だろう。

その根底にあるのは食と性を巡る競争原理だ。植物のようにエネルギーの自給システムである葉緑体を持たない動物は、自らの意思で環境世界を探索・行動し食料を確保しなければならない(ゆえに『動』物になった)。また有性生殖を始めた多細胞動物たちは、常により優れた配偶者を獲得するために様々な策を凝らし、戦う事を余儀なくされている。

その戦いのための情報収集器官として発達したのがいわゆる五感、眼鼻耳舌(身)の感覚に他ならない。集められた情報を集約してひとつの行動『意』思にまとめ上げるために大脳が生み出され、私たちのこの『意識』が顕在化した。

そのように考えれば、私たちの脳が、正に『排他と利己』の権化であるとしても何の不思議もないだろう。

そしてこの排他と利己という衝動には、具体的な脳器官という器質的な基盤が存在する事が明らかになっている。それが、いわゆる大脳辺縁系と呼ばれるものだ。

ヒトの中枢神経システムは、構造的・機能的に見て大きく3つの部分に分かれている。体性感覚の下部中枢である脊髄とその延長上にある下部脳幹と小脳。その上に位置する大脳辺縁系。それを中心に包み込むように丸く発達した大脳だ。

脊髄と呼吸中枢である延髄を中心とした下部脳幹は別名『植物的な脳』と呼ばれる。それはこの中枢が、先に述べた排他と利己の衝動を持たない静かでニュートラルな中枢だからだ。それは外部環境の中で行動するための中枢ではなく、身体という内部環境を維持管理するための中枢だ。大脳に宿る意識はいわば対外行動意識であり、脊髄・下部脳幹に宿る意識は内部統制意識であると言っても良いだろう。

橋(きょう)は延髄と共に下部脳幹を構成するが、この橋にしがみつくような形で後頭部に小脳が突き出している。これは別名達人の脳とも言われ、人間的なあらゆる精緻な運動の根拠となっている中枢だ。基本的にこれも非情動性の中枢に分類される(いわゆる『ゾーン』の中枢だ)。

そして上部脳幹から始まり大脳辺縁系を中心とした領域で、正に私たちの排他と利己という衝動は発動する。それは進化史的に見て大変古い動物の脳だ。それは仏教的な文脈では『 貪瞋痴=マーラ 』の座と言ってもいい。

貪瞋痴=マーラの座は大脳辺縁系である

その衝動は、基本的に『快と不快』『好きと嫌い』『喜びと悲しみ』『愛と憎』『恐怖と安心』『怒りと慈しみ』などの両極性で成り立っている。この大脳辺縁系が同時に食と性の中枢であるのはその性質上当然の事だろう。

この排他と利己という辺縁系からの指令に基づいて、五感からの情報を分析し瞬間に判断し行動するのが大脳の役割になる。例えばあるものを見たり聞いたり嗅いだり味わったり触ったりした瞬間、その情報は辺縁系に送られ、すぐさま快と不快、つまり利己性にとってプラスかマイナスか、という判断がフィードバックされる。その判断と同期した自我意識はすぐさまその対象に対して情動を覚える。この情動反応こそが、パーリ仏典で言う『サンカーラ』に他ならない。

つまり仏教的な文脈で言うサンカーラ、あるいは象徴的にまとめた『貪瞋痴』は明白な辺縁系のファンクションなのだ。『貪瞋痴』には明確な器質的基盤がある事を、第一にここで私たちは理解しておくべきだろう。

大脳は知性の脳とも言われるが、常に辺縁系からの強力なコマンドの影響下に置かれており、その衝動をコントロールするのは原理的にも難しい。その困難をある程度可能にしたのが、私たちが持つ発達した前頭葉であり、特に前頭前野と呼ばれるところに人間的な『理性』の座があると言われている。

全ての個体が持つ排他と利己という衝動は、その性格上常に他者との間にコンフリクトを生み出す。そこには常に様々な利得の割合によって勝者と敗者が存在する。進化の過程でその社会性を強めた人類にとって、動物的な無分別な利己性の発揮は、明らかに自他共に生存上不利益をもたらす場合が多くなった。

そこで人類は、大脳の発達と共に辺縁系に発する動物的衝動をコントロールする力、すなわち利己心を抑制し他者の利益をも考えて協力する理性、そして自分だけでなく他者をも愛する情性を獲得していった。そしてそれは宗教が芽生え、『戒』や『隣人愛』という倫理体系が顕在化していくプロセスでもあった。


2012年6月6日水曜日

宗教とは何か


先日NHKで放送された『未解決事件File・オウム真理教事件』の中で、何人かの警察関係者が異口同音に語っていた言葉がある。
「まさか、宗教団体が、この様な反社会的な破壊的テロ行為を組織的に計画しているとは、想像もできなかった・・・」
これは大方の一般市民にとってもごく自然な感懐なのかも知れない。しかし私の考えは違う。どうも宗教音痴の日本人は、『宗教』が持っている本来の姿というものを見失って久しい様だ。

歴史的に見て、宗教が世界平和や人類みな兄弟などとその『普遍』を標榜するようになったのは、ここ最近ほんの100年ほどの出来事に過ぎない。
宗教本来の姿とは、その信仰を共有する特定の集団、つまり氏族・部族・民族、階級、組織が持つ排他と利己という目的意識を強化し、その欲望を推進するために常に原動力として機能するものだった。

ニューギニアの未開のジャングルで、ワニをトーテムとするA族と、オウムをトーテムとするB族が隣り合って暮らしていたとしよう。縄張りや女性を巡って争いが起きれば、両部族はそれぞれの主宰神を掲げて戦場に臨む。ワニ神はA族にとっては至高の神であり、自らの正義と戦勝を推進する守護神だ。だが、対立するB族から見ればそれは明確に悪魔と言って良いだろう。B族のオウム神もまた然り。ここに宗教が持つ本質的な姿が露わになる。

トーテムの属性は、常に人間的な日常を超えた力、すなわちワニの場合は強力な顎や牙そして尾の破壊力、オウムの場合は色鮮やかな美しさとその飛翔能力、などの超『(人間的)能力』と深く結びついている。日常的な人間わざを超えた超常的な神の威力を背負う事によって、戦場における恐怖は勇気へと変わる。

この文脈に前回お話しした合気道を重ねると、さしずめ超常的な神業を持つ植芝盛平をトーテムと崇めるアイキ神族であると言えるかも知れない。

同様にオウム真理教事件を、圧倒的な多数を占めるマネー神族(日本株式会社)に対して、絶対的マイノリティーであるオウム神族が仕掛けた一発逆転ゲーム(戦争)だったと考えるとまた違った見方ができないだろうか。それは実に愚かな挑戦だったが、しかし宗教としての原理は一貫している。オウム神という異端のミームを勝利させるためには、あれが最善の道だと麻原彰晃は信じたのだろう。

宗教とは心にインストールされたセキュリティ・ソフトである

そもそも宗教とは一体何だろうか。私はそれを、脳とコンピュータの相似性から、この様に譬えたいと思う。それはすなわち、宗教とは脳において顕在化した『自我意識』というオペレーション・システム(OS)が、自らが持つ本質的な脆弱性を補うために創り上げた『セキュリティ・ソフト』である、と。セキュリティ・ソフトである以上、その目的は自己を守り、敵対する他者を排除する事を至上命令とするのは当然の帰結だ。

1台のパソコンに2種類のメジャーなセキュリティ・ソフトを同時にインストールすると、必ずと言って良いほど干渉問題を起こす。お互いがお互いの論理をウィルスと認識して排除しあうからだ。

もしマカフィーとカスペルスキーをインストールした2台のパソコンを『有機的』に接続して相互にコミュニケーションが可能になったとする。その瞬間マカフィーとカスペルスキーはお互いにお互いを敵と認識して戦争状態に突入しないだろうか。
私はコンピューターの専門家ではないので、もちろんこれは単なるたとえ話だ。だがこのたとえ話は宗教とは何か、という問いについて考える時に、重要な示唆を与えてくれるだろう。

オウム神族とマネー神族のあまりにも異質なセキュリティ・ソフトが、お互いにお互いをウィルスと認識して、オウム神が先制攻撃をかけた。それが、オウム真理教事件のひとつの解である、と私は思う。おそらく、麻原彰晃という人間は、たぐい稀なレベルでプリミティブな生命力に溢れたシャーマン的『族長』だったのだろう。宗教的な『文脈』など、実際彼にとってはどうでもいい事だったのだ。


2012年6月4日月曜日

はじめに ~ 『オウムとカルトと合気道』

オウム真理教の菊池直子容疑者が逮捕された。先日はNHKテレビでオウム事件の総括とも言える番組が放送された。これらをきっかけに、最近私は『カルト』というものについてつらつらと考えている。

以前私は、合気道を修行していた。今回はこのある種特異な武道を題材にカルトについて考えてみたい。

合気道は開祖植芝盛平が大東流合気柔術と大本教の信仰を融合させて生み出したと言われている。その根底には、彼が体験した鎮魂帰神の神秘体験が存在している。

神として祀られる植芝盛平の肖像

1925年(大正14年)42歳。春頃、綾部にて剣道教士の海軍将校と対戦しこれを退ける。この時も相手の木剣が振り下ろされるより早く「白い光」が飛んで来るのを感知して相手の攻撃を素手でことごとくかわし、将校は疲労困憊し戦闘不能に陥ったという。その直後盛平は井戸端での行水中に、「突如大地が鳴動し黄金の光に全身が包まれ宇宙と一体化する」幻影に襲われるという神秘体験に遭遇、「武道の根源は神の愛であり、万有愛護の精神である」という理念的確信と「気の妙用」という武術極意に達する。(「黄金体体験」)
Wikipediaより抜粋)

これなどは、いわゆる『ゾーン体験』とその直後の『神秘的な』トランス状態に過ぎないのだが、彼は大本的文脈に沿って主観的にこれを『神人合一』の瞬間と位置付けた。それ以来合気道において盛平は『神』として祀られるようになり、その武術は神業と称えられるようになった。

この様な成り立ちを経て生まれた合気道には、様々な『神話的』伝説は欠かせない。

戦前帝国陸軍と懇意であった盛平は、ある時軍人たちと話をしていて「ワシは飛んでくる銃の弾をよける事ができる」と豪語した。軍人としては黙っていられないのは言うまでもない。お前らの武器は無力だ、と言われたに等しいからだ。

両者はできるできないの言い争いになり、決着をつけるために陸軍精鋭の狙撃兵と盛平が『立ち会う』すなわち決闘する事となった。狙撃兵は5人とも10人とも言われる。彼らと対峙するその距離30m、植芝盛平は仁王立ちに彼らを睨みつけ、兵士たちは必中必殺の狙いを定め、ついにその引き金を引いた。

轟音とどろき激しい土煙が立ちのぼる中、一瞬にして30mの距離を移動した盛平は、次の瞬間には狙撃兵たちをなぎ倒していたと言う。

一瞬で30mの瞬間移動とは100mなら3秒フラット? 正にウサイン・ボルトも真っ青といったところだろう。

その他にも超常的な神話伝承には事欠かず、その極めつけは盛平の再誕物語だ。神とひとつになった盛平の魂は、死後も神霊となってこの世に留まり続け、様々な瞬間を得て合気道にゆかりのある人々に憑依し、その神威を発揮するのだと言う。

一説によれば、たゆまざる精進修行によって心身の霊格を高め、この盛平の神霊と一体となりその神業を再現する事こそが、すべての合気道家の理想だとも言う。

これらのファンタジーは確かにエキサイティングで面白い。だがこの『面白さ』こそが、麻原彰晃がメディアの寵児になった理由でもある、という事を忘れてはならないだろう。

1999429日、年初における父植芝吉祥丸の死去に伴って第三代道主に就任した植芝守央は、新道主のお披露目とも言える初舞台として、茨城県岩間町(現笠間町)の合気神社大祭に来臨した。

これは未確認情報だが、この時守央新道主は、参列するある合気道修行者の眼の中に、まざまざと祖父植芝盛平の神霊を見てとって、腰の抜けるような驚愕と共によろばうが如き千鳥足でその奉納演武を終えたのだと言う。その時、彼の瞳の中にはまぎれもない『恐怖』が刻印されていたと語る目撃者もいる。
だが、そのように人をして恐怖せしめる神とは、一体何だろうか?

その後、盛平再臨の噂は瞬く間に関係者の間に広まり、この合気道修行者Aの周囲には長きにわたる狂乱のラプソディ状態が続いたと言う。だがその詳細については今日に至るまでつまびらかになってはいない。

私は岩間道場で最晩年の斉藤守弘師範に内弟子入門し、通い弟子期間を合わせると3年弱の間合気道修行にまい進した。その間漏れ聞いた開祖植芝盛平の実像は、その際立った自己中心性(要するにガキっぽいわがまま)や頻発する女性問題など、麻原彰晃と重なり合う部分も多い。彼は決して聖者の名が値しない、単なる神がかった俗物に過ぎなかった。

私はここに断言するのだが、合気道が標榜する植芝盛平の超常能力とは、オウム真理教が標榜した麻原彰晃の超常能力と本質的に全く同じ『荒唐無稽』であり、言ってみればカルトそのものなのだ。ただオウムの場合その破壊性が露わになったカルトであると言う事であり、荒唐無稽な妄想を真実だと盲信していると言う心的態度において、両者の間に全く違いはない。

世界の破壊を志向するカルトと世界の平和を志向するカルト。世界における表れは真逆であっても、本質的にカルトであると言う点で異なる所はない。

最終解脱をした麻原彰晃の超越性と、宇宙と一体化した植芝盛平の超越性と、共に超常的な力の獲得を妄想し、それをその偉大性の根拠にしていると言う点では完全に一致する。

そして超能力者麻原彰晃のその特異な力に憧れて弟子たちが群がった構図と、神業の達人植芝盛平に憧れて弟子たちが群がった構図は、完全に重なり合う。合気道の技の中には手を触れずに『気』の力で相手を遠隔操作して投げ飛ばす『超絶技』が存在するとも言うが、これなどは正にブードゥー教レベルの拙劣な迷妄と言って良いだろう。

東京の本部道場をはじめ、全国津々浦々の合気道場で、植芝盛平の肖像写真は『神』として神棚に祀られ続けている。『超』のつく何ものかを崇め、それを獲得する事によって自身の存在価値が高まり、他者に対して優越すると信じ高ぶるメンタリティーは、正に超合金マジンガーZを欲しがり、それを獲得する事によって優越感を覚え舞い上がるガキンチョのメンタリティーそのものなのだ。

私自身、身体的な『行』として合気道を愛した一時期がある身としては、この様なことを書かなければならないのは本当につらく悲しいのだが、これらの事実は重く重く受け止めなければならない。

そして東京に本部を置く合気会は、公益財団法人であるにも関わらず、盛平の持つその神性をいわば血脈として受け継ぐ直系の子孫によって、代々その道主の地位が継承されるという。その組織形態は正に新興宗教そのものと言って良い。

この21世紀、社会のあらゆる領域において合理的な科学知識とその成果である技術の体系が浸透し、その力を十全に発揮しているにも拘らず、私たちの周りにはありとあらゆる非科学的なカルトが満ち溢れている。今回はたまたま以前関わりのあった合気道を例として取り上げたが、合気道に見られる無知蒙昧など、ほんの氷山の一角に過ぎない。

例えば、最も身近な所では占いや血液型性格判断などが上げられる。これらはまったく科学的根拠を持たない妄言なのだが、一般大衆の人気は絶大であり、おそらく在京テレビ局のほとんど全てが、これらを朝番組でコーナー化して放送している。この様な社会的背景があって初めて、あの『偽占い師事件』は起きたと言えるだろう。

政治家や芸能人、そして経済界のトップなど、社会の上層に属する人々の多くが、実はカルト的な新興宗教の熱心な信者である、という事実も忘れてはならない。

折しも指名手配されていたオウム真理教の幹部が続けざまに逮捕されている昨今、もう一度1995年に起きたあの惨禍を振り返り、宗教とは何かカルトとは何か、そう問い直す事が求められている気がしてならない。

オウム事件は、私たちにとって決して他人事ではない。カルトの種は、その『神秘』にひれ伏しすがりつく無知と弱さは、私たち一人ひとりの心の中に潜在している。その自覚こそが、今必要なのだと私は強く思う。

これからこのブログに掲載する様々な思索は、そのような時代の要請に対する、私自身のひとつのけじめとして、謹んで読者のみなさんに提出されるものだ。