前回はインド・アーリア人の原風景、シンタシュタ文化のチャクラ・シティについて紹介した。彼らにとって、車輪やラタ車(戦車、馬車、牛車)がどれだけ重要であったかがイメージできたと思う。
インド・アーリア人にとってのラタ車とは、海洋民族にとっての船であり、定住移動を繰り返す歴史の中で、ある意味彼らの人生そのものがラタ車の上で演じられたと言えるほど、その存在は生活に密着した欠かせないものだった。
そんなチャクラ(車輪)思想を携えて、アーリア人はインド亜大陸に侵入し、正にその車輪を履いたラタ戦車の優位性に依って先住民に圧勝した。彼らの中で、ラタ車と車輪の持つ重要性はさらに一層高まった事だろう。
ペルシャに伝わったラタ戦車
リグ・ヴェーダには、カイバル峠を越えてインダス川流域に侵入したアーリア人が先住民と戦い、勝利し、その富を略奪していった過程が、これでもかと描写されている。その主役とも言えるのが、黄金のラタ戦車に乗り、全軍を指揮し、先住民ダスユ(ダーサ)を殺戮するインドラ神だ。
「神の力にものみな揺らぎ、ダーサのやから(アーリア人の敵、先住民)影ひそむ。異部族びとの蓄えを奪いて取りぬ、勝ち誇る、賭けの巧みをさながらに。その神の名はインドラ天」
「罪に汚れし諸人は、いつしか彼の弓の的。奢れる者は彼の敵。アリアン族に仇をなす、ダスユ(先住民、悪魔)もあわれ彼の犠牲。その神の名はインドラ天」
辻直四郎訳。
おそらく、彼らアーリア人がインダス河流域で最初にコンタクトした先住民は、比較的文化程度の低い人々だったのだろう。それはリグ・ヴェーダの中で先住民ダスユ(ダーサ)が「肌が黒く鼻が低い」と表現されている事や、しばしば蛇族、あるいは蛇形の悪魔ヴリトラと重ね合されている事からも想像できる。そのイメージは、物質文明において優れていると言うよりも森や生態系と共生する印象が強い。
一方のアーリア人と言えば、7000㎞に及ぶ長途の旅の間、無人の野を駆けて来た訳ではなかった。新しい土地には必ず先住民が居り、多くの場合は戦いが起こった事だろう。つまり彼らは500年にわたって様々な民族と戦い続けた歴戦の猛者だったのだ。
アーリア人と先住民の武力の格差は、武器の上でも経験の上でも歴然としていた。アーリア人は、この亜大陸最初の一歩において、未だかつてない圧勝をおさめた事だろう。
では、逆に征服された先住民の立場に立った時、この出会いはどんなものだっただろう。間違いなく、彼らはラタ戦車なる物を初めて見た。当時インド亜大陸内部では、牛に牽かせる荷車はあったが、馬に牽かれた高速機動戦車など青天の霹靂だったに違いない。
アーリア人の戦術とは、この高速機動戦車を駆って、車上から弓矢を速射しながら波状攻撃をかけるという極めて斬新かつ画期的なもので、先住民にとっては戦国時代の日本における種子島(火縄銃)の登場以上の驚愕と混乱をもたらした事が想像できる。
この不幸な出会いは、例えてみれば、大航海時代の到来と共に中南米に押し寄せたスペイン・ポルトガル人たちが、その圧倒的な武力の優位を元に、先住民インディオを殺戮し征服し、黄金などの富を略奪していったプロセスと似ているのかも知れない。
1532年、豚飼いとして知られたフランシスコ・ピサロはわずか200名足らずの部下と共にインカ帝国を滅ぼしてしまう。銃を持ち馬に騎乗するこのスペイン人たちを見て、インカ人たちは彼らを自らの伝承にある雷帝神、あるいは「白い神」、と誤認したようだ。
騎乗するスペイン人はインカ帝国を征服し、君臨した
当時のインカ軍は総勢80000人以上とも言われる。80000人対200人。この様な圧倒的な戦力差も、装備的心理的な優位によって簡単に覆されたのだ。
恐らく、これと同じような事が、アーリア人とダスユの先住民の間でも起こった。
ここで思い出して欲しいのが、インダスのチャクラ文字だ。あたかも6本スポークの車輪の様なシンボルが、インダス文明においてはある種宗教的な特別な意味を持っていたと考えられている。
ダスユの原住民が直接的にインダスの末裔であったか、またこのチャクラ文字を継承していたかどうかは分からない。けれど、インダス・シールに刻まれた瞑想者の姿が獣類の王パシュパティとしてのシヴァの原型であると考えられている事、ダスユの先住民がリンガの信仰を持っていたらしいこと、またアショカ王の時代においても、インダスのものと同じ寸法比率のレンガが用いられていたことなどから考えると、インダスの文化諸要素は確実にインド先住民に継承されていた事がうかがい知れる。
私的にここでよりドラマチックな仮説を採用すれば、ダスユにとっても、チャクラ文字は神を象徴する形であり、その同じ形の車輪を駆ってやってきたアーリア人は、彼らの眼には文字通り「鬼神」に映ったのではないか、という事なのだ。
そして、ダスユの民は完敗した。あたかも200人に満たないピサロ率いるゴロツキ集団によってインカ帝国が滅ぼされたように。そしてダスユの心の奥深くに、アーリア人に対する根源的な恐怖と畏怖の気持ちが徹底的に植えつけられた。その武力の象徴である車輪の形と共に。鬼神の車輪を乗りこなすアーリア人には絶対に敵わない。これがヴァルナのシステムを根底で支えるダスユ達の深層心理だったのだ。
この心理は、第二次大戦末期に2発の原爆を投下され甚大な被害をこうむった日本人のそれと重ね合わせるとよく理解できるかもしれない。あまりにも圧倒的な武力・破壊力に直面し、なすすべもなく敗れた者は、強烈にその敗北を心に刻み込む。このアメリカには絶対に敵わないと。
そして戦後の日本は、ひたすらにアメリカに追従し、その文化を模倣し、少しでもアメリカに近づくことをその国家目標として掲げてきた。
アーリア人に対して決して「ノーと言えない」ダスユ達の「信仰心」こそが、カースト制度をその根底で支える深層心理だったと考えても、そう的外れではないだろう。
何故私が、仏教とは一見関係のないインド史について延々と語るのか、疑問に思う向きもあるかも知れない。けれど、この絶対勝者アーリア人対絶対敗者先住民という構図こそが、その両者の間に生まれた心理的な化学反応こそが、インド思想の深みと、その現代における普遍性の根拠になっていると考える私にとって、この点をないがしろにすることは決して出来ない。
歴史は常に勝者によって記述されるという。アーリア人のインド侵入と言う歴史的事実は、常に勝者アーリア人が残した文献のみに依存して考察されてきた。そこから始まる全てのインド学的営為においてもまた、敗者である先住民のリアリティは完全に黙殺され続けてきたという現実がある。
しかし、この敗者による勝者に対するアンチテーゼこそが、仏教をはじめとした「反バラモン」思想を生み出す原動力だったと考えた時、インド思想に対して全く新しい光が投げかけられるだろう。
様々な相対立する車輪が織りなすインド思想のダイナミズム
侵略者アーリア人が無邪気なまでに称賛した武神の車輪。そして征服された先住民が見た「鬼神」が転ずる恐怖と破壊の車輪。ブッダによって転じられた聖法の車輪。その真逆とも言える根源的な苦悩の車輪。
これら様々なギャップを持つ多極的な車輪が有機的に関わる事によって、正に躍動するインド思想のダイナミズムが展開し転回していったのだから。
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