2012年6月4日月曜日

はじめに ~ 『オウムとカルトと合気道』

オウム真理教の菊池直子容疑者が逮捕された。先日はNHKテレビでオウム事件の総括とも言える番組が放送された。これらをきっかけに、最近私は『カルト』というものについてつらつらと考えている。

以前私は、合気道を修行していた。今回はこのある種特異な武道を題材にカルトについて考えてみたい。

合気道は開祖植芝盛平が大東流合気柔術と大本教の信仰を融合させて生み出したと言われている。その根底には、彼が体験した鎮魂帰神の神秘体験が存在している。

神として祀られる植芝盛平の肖像

1925年(大正14年)42歳。春頃、綾部にて剣道教士の海軍将校と対戦しこれを退ける。この時も相手の木剣が振り下ろされるより早く「白い光」が飛んで来るのを感知して相手の攻撃を素手でことごとくかわし、将校は疲労困憊し戦闘不能に陥ったという。その直後盛平は井戸端での行水中に、「突如大地が鳴動し黄金の光に全身が包まれ宇宙と一体化する」幻影に襲われるという神秘体験に遭遇、「武道の根源は神の愛であり、万有愛護の精神である」という理念的確信と「気の妙用」という武術極意に達する。(「黄金体体験」)
Wikipediaより抜粋)

これなどは、いわゆる『ゾーン体験』とその直後の『神秘的な』トランス状態に過ぎないのだが、彼は大本的文脈に沿って主観的にこれを『神人合一』の瞬間と位置付けた。それ以来合気道において盛平は『神』として祀られるようになり、その武術は神業と称えられるようになった。

この様な成り立ちを経て生まれた合気道には、様々な『神話的』伝説は欠かせない。

戦前帝国陸軍と懇意であった盛平は、ある時軍人たちと話をしていて「ワシは飛んでくる銃の弾をよける事ができる」と豪語した。軍人としては黙っていられないのは言うまでもない。お前らの武器は無力だ、と言われたに等しいからだ。

両者はできるできないの言い争いになり、決着をつけるために陸軍精鋭の狙撃兵と盛平が『立ち会う』すなわち決闘する事となった。狙撃兵は5人とも10人とも言われる。彼らと対峙するその距離30m、植芝盛平は仁王立ちに彼らを睨みつけ、兵士たちは必中必殺の狙いを定め、ついにその引き金を引いた。

轟音とどろき激しい土煙が立ちのぼる中、一瞬にして30mの距離を移動した盛平は、次の瞬間には狙撃兵たちをなぎ倒していたと言う。

一瞬で30mの瞬間移動とは100mなら3秒フラット? 正にウサイン・ボルトも真っ青といったところだろう。

その他にも超常的な神話伝承には事欠かず、その極めつけは盛平の再誕物語だ。神とひとつになった盛平の魂は、死後も神霊となってこの世に留まり続け、様々な瞬間を得て合気道にゆかりのある人々に憑依し、その神威を発揮するのだと言う。

一説によれば、たゆまざる精進修行によって心身の霊格を高め、この盛平の神霊と一体となりその神業を再現する事こそが、すべての合気道家の理想だとも言う。

これらのファンタジーは確かにエキサイティングで面白い。だがこの『面白さ』こそが、麻原彰晃がメディアの寵児になった理由でもある、という事を忘れてはならないだろう。

1999429日、年初における父植芝吉祥丸の死去に伴って第三代道主に就任した植芝守央は、新道主のお披露目とも言える初舞台として、茨城県岩間町(現笠間町)の合気神社大祭に来臨した。

これは未確認情報だが、この時守央新道主は、参列するある合気道修行者の眼の中に、まざまざと祖父植芝盛平の神霊を見てとって、腰の抜けるような驚愕と共によろばうが如き千鳥足でその奉納演武を終えたのだと言う。その時、彼の瞳の中にはまぎれもない『恐怖』が刻印されていたと語る目撃者もいる。
だが、そのように人をして恐怖せしめる神とは、一体何だろうか?

その後、盛平再臨の噂は瞬く間に関係者の間に広まり、この合気道修行者Aの周囲には長きにわたる狂乱のラプソディ状態が続いたと言う。だがその詳細については今日に至るまでつまびらかになってはいない。

私は岩間道場で最晩年の斉藤守弘師範に内弟子入門し、通い弟子期間を合わせると3年弱の間合気道修行にまい進した。その間漏れ聞いた開祖植芝盛平の実像は、その際立った自己中心性(要するにガキっぽいわがまま)や頻発する女性問題など、麻原彰晃と重なり合う部分も多い。彼は決して聖者の名が値しない、単なる神がかった俗物に過ぎなかった。

私はここに断言するのだが、合気道が標榜する植芝盛平の超常能力とは、オウム真理教が標榜した麻原彰晃の超常能力と本質的に全く同じ『荒唐無稽』であり、言ってみればカルトそのものなのだ。ただオウムの場合その破壊性が露わになったカルトであると言う事であり、荒唐無稽な妄想を真実だと盲信していると言う心的態度において、両者の間に全く違いはない。

世界の破壊を志向するカルトと世界の平和を志向するカルト。世界における表れは真逆であっても、本質的にカルトであると言う点で異なる所はない。

最終解脱をした麻原彰晃の超越性と、宇宙と一体化した植芝盛平の超越性と、共に超常的な力の獲得を妄想し、それをその偉大性の根拠にしていると言う点では完全に一致する。

そして超能力者麻原彰晃のその特異な力に憧れて弟子たちが群がった構図と、神業の達人植芝盛平に憧れて弟子たちが群がった構図は、完全に重なり合う。合気道の技の中には手を触れずに『気』の力で相手を遠隔操作して投げ飛ばす『超絶技』が存在するとも言うが、これなどは正にブードゥー教レベルの拙劣な迷妄と言って良いだろう。

東京の本部道場をはじめ、全国津々浦々の合気道場で、植芝盛平の肖像写真は『神』として神棚に祀られ続けている。『超』のつく何ものかを崇め、それを獲得する事によって自身の存在価値が高まり、他者に対して優越すると信じ高ぶるメンタリティーは、正に超合金マジンガーZを欲しがり、それを獲得する事によって優越感を覚え舞い上がるガキンチョのメンタリティーそのものなのだ。

私自身、身体的な『行』として合気道を愛した一時期がある身としては、この様なことを書かなければならないのは本当につらく悲しいのだが、これらの事実は重く重く受け止めなければならない。

そして東京に本部を置く合気会は、公益財団法人であるにも関わらず、盛平の持つその神性をいわば血脈として受け継ぐ直系の子孫によって、代々その道主の地位が継承されるという。その組織形態は正に新興宗教そのものと言って良い。

この21世紀、社会のあらゆる領域において合理的な科学知識とその成果である技術の体系が浸透し、その力を十全に発揮しているにも拘らず、私たちの周りにはありとあらゆる非科学的なカルトが満ち溢れている。今回はたまたま以前関わりのあった合気道を例として取り上げたが、合気道に見られる無知蒙昧など、ほんの氷山の一角に過ぎない。

例えば、最も身近な所では占いや血液型性格判断などが上げられる。これらはまったく科学的根拠を持たない妄言なのだが、一般大衆の人気は絶大であり、おそらく在京テレビ局のほとんど全てが、これらを朝番組でコーナー化して放送している。この様な社会的背景があって初めて、あの『偽占い師事件』は起きたと言えるだろう。

政治家や芸能人、そして経済界のトップなど、社会の上層に属する人々の多くが、実はカルト的な新興宗教の熱心な信者である、という事実も忘れてはならない。

折しも指名手配されていたオウム真理教の幹部が続けざまに逮捕されている昨今、もう一度1995年に起きたあの惨禍を振り返り、宗教とは何かカルトとは何か、そう問い直す事が求められている気がしてならない。

オウム事件は、私たちにとって決して他人事ではない。カルトの種は、その『神秘』にひれ伏しすがりつく無知と弱さは、私たち一人ひとりの心の中に潜在している。その自覚こそが、今必要なのだと私は強く思う。

これからこのブログに掲載する様々な思索は、そのような時代の要請に対する、私自身のひとつのけじめとして、謹んで読者のみなさんに提出されるものだ。

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