インドにおける、チャクラ思想の真実を求めて旅を続けた私は、やがて2つの源流にたどり着いた。ひとつは紀元前1500年に北西インドに侵入した、侵略者アーリア人の文化的伝統であり、もうひとつは紀元前2000年ごろその最盛期を迎えた、インダス文明の伝統だった。
アーリア人とは、紀元前2500年ごろ東ヨーロッパ、現在のウクライナ周辺に勃興した民族集団だ。大平原に遊牧を主とした生計を営んでいた彼らは、やがて紀元前2000年ごろ、木製スポーク式車輪を世界で初めて開発した。
それ以前に普及していたのは、木の板を張り合わせて作った鈍重な車輪だった。それに比べスポーク式は、革新的なハイテクノロジーだったのだ。そのハイテク車輪を履かせたラタ戦車を馬に牽かせ、その圧倒的な機動力の優位によって、彼らは西ヨーロッパ、地中海世界、中央アジアへと進出していった。
中央アジアを東進したアーリア人は、やがて現在のイランにその一派が定着し、さらに東の果てまで進み、カイバル峠を越えてインド亜大陸に侵入した。このインドまでたどり着いた集団を、インド・アーリア人と呼ぶ。彼らはヴェーダの祭式を重んじる、極めて宗教的な部族集団であった。
ラタ戦車の圧倒的な武威によって西ユーラシアを席巻した彼らにとって、その威力の中心であるスポーク式車輪は、偉大なる転輪武王の象徴であると同時に、神々の神威をも象徴するシンボルとなった。
この点に関してはチャクラの国のエクササイズ・チャクラ意識の源流1以下を参照して欲しい。
ここで重要なのは、ラタ戦車に使われていた車輪のスポーク本数が、6本であったことだろう。6本スポークの車輪は、正にアーリア人の神威を象徴するシンボルだったのだ。
そしてもうひとつの源流。それは紀元前2500年頃から栄えはじめ、紀元前1700頃に忽然と滅びた、インダス文明に他ならない。
当時インダス文明は、メソポタミアなど地中海世界周辺の文明圏とも交易を通じて深く結びついていた。しかし、その遺跡からは巨大な軍事力を想起させるようなものが発見されておらず、その文化の実態については未だ謎に包まれている。
しかし、インダス・シールと呼ばれる石製の印章に刻まれた様々なデザインによって、彼らが瞑想実践を中心に据えた極めて宗教的な人々であった事が推定されている。その彼らの神性を表すシンボルが、これは『神』の悪戯としか思えないのだが、6本スポーク車輪を思わせる、図形だったのだ。これは分かりやすく言うと、6Pチーズのデザインを単純に線描した形になる。
このチャクラ文字は、近年発掘が進むドーラヴィーラの遺跡においても、神殿と思しき施設のゲートに掲げられた、世界最古とも言われる看板に複数個刻まれていた事によって、一躍注目を浴びた。
このチャクラ・シンボルはインダス文明崩壊後も瞑想ヨーガと共にインドの先住民に継承され、紀元前1500年のアーリア人侵入に伴ってもたらされたラタ戦車の車輪と重なり合って、ここにインド神聖チャクラ思想の基盤が確立した。私はそう考えている。
この間の詳細については、チャクラの国のエクササイズ・チャクラ意識の源流4を参照して欲しい。
ラタ戦車の車輪を構成する部品は大きく二つに分ける事ができる。車台に固定された車軸と、その車軸にはまる事によってスムースな回転を得る車輪だ。実はこの車軸と車輪というセットこそが、常に合い携えてインド思想の基盤をなしてきた。これが私の中心仮説だ。
そして勿論、正にこの輪軸の思想こそが、ブッダの悟りとそれをもたらした瞑想法の作用機序とも密接に関わっていた。これが本ブログの論述を支える、最も重要な基盤となる。
この様なチャクラ思想は、シッダールタ在世当時も、様々なヴェーダを始め日常生活の隅々にまで、知識階級や修行者の間では一般常識としてすでに浸透していた。シッダールタは正にチャクラ思想の申し子として生まれ、育ち、修行し、悟りを開いたのだ。
上の図版の背後にある輪軸思想の導入部については、
チャクラの国のエクササイズ・チャクラを制する者は1~6と
チャクラの国のエクササイズ・展開するデヴィ・シャクティ1~6を参照して欲しい。
次回は、このインド輪軸思想の核心と、シッダールタとの結びつきについて、詳述したい。
アーリア人とは、紀元前2500年ごろ東ヨーロッパ、現在のウクライナ周辺に勃興した民族集団だ。大平原に遊牧を主とした生計を営んでいた彼らは、やがて紀元前2000年ごろ、木製スポーク式車輪を世界で初めて開発した。
それ以前に普及していたのは、木の板を張り合わせて作った鈍重な車輪だった。それに比べスポーク式は、革新的なハイテクノロジーだったのだ。そのハイテク車輪を履かせたラタ戦車を馬に牽かせ、その圧倒的な機動力の優位によって、彼らは西ヨーロッパ、地中海世界、中央アジアへと進出していった。
中央アジアを東進したアーリア人は、やがて現在のイランにその一派が定着し、さらに東の果てまで進み、カイバル峠を越えてインド亜大陸に侵入した。このインドまでたどり着いた集団を、インド・アーリア人と呼ぶ。彼らはヴェーダの祭式を重んじる、極めて宗教的な部族集団であった。
ラタ戦車の圧倒的な武威によって西ユーラシアを席巻した彼らにとって、その威力の中心であるスポーク式車輪は、偉大なる転輪武王の象徴であると同時に、神々の神威をも象徴するシンボルとなった。
この点に関してはチャクラの国のエクササイズ・チャクラ意識の源流1以下を参照して欲しい。
ここで重要なのは、ラタ戦車に使われていた車輪のスポーク本数が、6本であったことだろう。6本スポークの車輪は、正にアーリア人の神威を象徴するシンボルだったのだ。
エジプト古代王朝・ラムセスⅡ世が乗る戦車
この図柄はラタ戦車の原像をよく表している
高速機動戦車を駆って弓矢を速射するという
この戦術が、アーリア人の強さの源だった
当時インダス文明は、メソポタミアなど地中海世界周辺の文明圏とも交易を通じて深く結びついていた。しかし、その遺跡からは巨大な軍事力を想起させるようなものが発見されておらず、その文化の実態については未だ謎に包まれている。
瞑想するヨーギ。シヴァ神パシュパティナートの原像か
しかし、インダス・シールと呼ばれる石製の印章に刻まれた様々なデザインによって、彼らが瞑想実践を中心に据えた極めて宗教的な人々であった事が推定されている。その彼らの神性を表すシンボルが、これは『神』の悪戯としか思えないのだが、6本スポーク車輪を思わせる、図形だったのだ。これは分かりやすく言うと、6Pチーズのデザインを単純に線描した形になる。
インダスの印章、チャクラ文字
このチャクラ文字は、近年発掘が進むドーラヴィーラの遺跡においても、神殿と思しき施設のゲートに掲げられた、世界最古とも言われる看板に複数個刻まれていた事によって、一躍注目を浴びた。
ドーラヴィーラのサインボード
このチャクラ・シンボルはインダス文明崩壊後も瞑想ヨーガと共にインドの先住民に継承され、紀元前1500年のアーリア人侵入に伴ってもたらされたラタ戦車の車輪と重なり合って、ここにインド神聖チャクラ思想の基盤が確立した。私はそう考えている。
この間の詳細については、チャクラの国のエクササイズ・チャクラ意識の源流4を参照して欲しい。
ラタ戦車の車輪を構成する部品は大きく二つに分ける事ができる。車台に固定された車軸と、その車軸にはまる事によってスムースな回転を得る車輪だ。実はこの車軸と車輪というセットこそが、常に合い携えてインド思想の基盤をなしてきた。これが私の中心仮説だ。
そして勿論、正にこの輪軸の思想こそが、ブッダの悟りとそれをもたらした瞑想法の作用機序とも密接に関わっていた。これが本ブログの論述を支える、最も重要な基盤となる。
この様なチャクラ思想は、シッダールタ在世当時も、様々なヴェーダを始め日常生活の隅々にまで、知識階級や修行者の間では一般常識としてすでに浸透していた。シッダールタは正にチャクラ思想の申し子として生まれ、育ち、修行し、悟りを開いたのだ。
アマラヴァティ遺跡で発掘された蓮華の車輪
ヨーガ・チャクラ図は体内の車輪を表す
玄関先に描かれた吉祥文様ランゴーリ
パッラヴァ朝時代の天井華輪彫刻
踊るシヴァ神・ナタラージャ神像に内在するチャクラ
チベット仏教タンカ・六道輪廻図
上の図版の背後にある輪軸思想の導入部については、
チャクラの国のエクササイズ・チャクラを制する者は1~6と
チャクラの国のエクササイズ・展開するデヴィ・シャクティ1~6を参照して欲しい。
次回は、このインド輪軸思想の核心と、シッダールタとの結びつきについて、詳述したい。
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